honey 7
海軍大将ともなると何処を歩いていても必ず声を掛けられるし、相手が踵を合わせて敬礼やら挨拶やらするのもいつものことだから特別気にするようなことはないが、その日黄猿は珍しく足を止めて若い海兵のひとりを振り返った。
すれ違いざまにこんにちは、と覚えのある声が聞こえたけれど、彼の記憶にある女の声と横目で捉えたその姿とが合致しなかったのだ。何ヶ月か前に見たときと明らかに雰囲気が違う。ただ礼をされただけだったのなら、きっとわからなかっただろう。

「あ、ああ…ジョアナちゃんかァ…」
「やだ、黄猿の大将ったら、私のこと忘れちゃったんですか?」
「ごめんごめん…ほらァ、ここんとこ君らの隊とわっしらとで何度か入れ替わりだったじゃな〜い?ずいぶん会ってなかったから…」
「そんなにお久しぶりでした?あ、でも、私最近体重増えたんですよねえ…どうしよう、だいぶ太って見えます?」
「そうは見えねぇが…」

たいしてありもしない頬の肉を両手でつまんだジョアナに黄猿は曖昧な笑みを向けたが、何かに気づいた彼女は彼の戸惑いにはまったく気づかず、挨拶もそこそこにぱっと駆け出した。見れば白い正義を翻した同僚が大股に部屋から出てきたところで、彼女はその後ろにぴたりと付き従っている。
赤犬はちらとも振り返らなかった。まるでそれが当たり前かのように、彼女が己の傍に居て当然と言うように前だけを睨みつけていた。
この十数メートルを一瞬で駆け抜けた獣は、ともすると風に溶け込んでしまいそうなくらい儚げだった。彼女の蜂蜜色の髪や毛皮がずいぶんと薄らいでほとんど白に近くなっているのだと気づいたのは、それから数分ののちのことだった。


血と肉の焦げる匂いの所為で、鼻はとうにいかれている。腹の底で何かがざわつくような、得体の知れぬ感覚がつきまとう。
それでも見開いた目で、ぴんと立てた耳で、踏みしめる甲板の感触で周囲を把握し駆け抜ける。後脚にぐっと力を込め高々と跳躍し、まだ動く気力のある海賊どもを蹴散らしなぎ倒し押さえつけ海へ落とし。
そうして辺り一帯が静まりかえったころ、ジョアナはそのスピードを緩めて己の艦へ戻り、大きな白い背中の後ろでひとの姿を取り戻した。
真正面にじっと目を凝らし、部下が戻ったことにも特別気づかぬ赤犬を見上げ、大将、と控えめに呼びかける。

「デルソン隊からも報告が…これでグリフィスの艦隊全七隻、すべて片付きました」
「……」
「生存者十一名は拘束済みです。あとは…」
「まだじゃあ」

ここから一番向こう側、半分沈みかかった船に向けて赤犬は拳を突き出した。瞬間、皮膚がじりじりと焼けるような感覚にジョアナは思わず顔を腕で覆い、千度もあるマグマの塊が放たれたのを認識したときには船は燃え崩れていた。
ひとの叫び声が聞こえた気がした。だとしても轟音に掻き消された。積荷の火薬に引火し、瓦礫の雨がばらばらと降り注いだからだ。


乾きかけの短い髪に太い指を通し、細かい木屑を見つけて取り除く。
その気になれば握り潰してしまえそうなジョアナの小さな頭蓋は、赤犬の両手にすっぽりと包み込まれていた。
彼の裸の胸の上に乗る軽い身体はまるで猫のようだった。よほど撫でられるのが気持ちいいのか、ひとの姿であっても獣のときのように目を細めて喉を鳴らす。

「もうちいと丁寧に洗わんか」
「いいんです、こうして取ってもらえるから」

彫物の上にぺたりと右手を付け、左の指先で彼の首筋の浮き出た血管をなぞる。
バカタレが、と言われても嬉しそうに笑うだけで、赤犬が撫でる手を止めるともっとと言う代わりに頭を擦り付けた。手袋でない彼のごつい手が好きなのだ。
彼の方でもきっと、ジョアナの髪の感触を気に入っているのだろう。無意識に指先を動かしてゆるゆると梳き、三日月型の目が己をじっと見つめているのをぼんやりと眺め、なんじゃあ、とかすれた声で呟く。

「そんなにわしの顔を見ていて楽しいんか」
「いいえ、楽しいんじゃなくて嬉しいんです」
「ああ?」
「だって、サカズキさんが見てくれてるんですもん」

彼の掌に頬をくっつけすり寄せる。
ほうか、と無頓着に返す赤犬が、今このときは自分だけを見てくれている。ほかの誰でもなく、何でもなく、私だけ。
彼が目を向けるべきものはほんとうに沢山あった。それは彼女にもわかっていた。艦、海、敵、兵士たち。幾多の報告書も難しい資料も細かすぎる予定表も何もかも。近頃は特に仕方が無い。来るべき日に備え、周囲はずいぶんと慌ただしい。
しかし今はこちらだけを見つめていた。広い胸板の上に寝そべり、ジョアナの目線が下がると彼もまたそれを追う。
ほうら、ね、とこころの中でひとりごち、ますます嬉しそうにジョアナは笑った。時計と電伝虫を隠す必要はなかったのかもしれない。

「あ、そうだ、この間黄猿の大将にお会いしたんですけどね、最初全然気づいてもらえなかったんです」
「大方考え事でもしとったんじゃろ」
「えー、でも私そんなに気づかれないほど変わりましたか?やっぱり太ったのかな…」
「こんな細っこい身体のどこに肉が付いとるんじゃあ」

タンクトップとショートパンツからすらりと伸びたジョアナの手足は、出会ったころから変わらずか細く頼りない。
しかし、触れれば滑らかな皮膚の下に薄い脂肪としなやかな筋肉とが彼女の骨を覆っていることに気づく。そこらの女どものようにただ柔いだけの身体ではない、修練を積んだ兵士のそれだ。本部に配属されて以後、さらに磨きがかかっている。
でも体重増えたんです、と彼女は唇を尖らすけれど、それは日々休みなく鍛え抜いた結果だ。当然だろう。

「筋肉が付いた分、重たくもなるわ」
「でも、ここなんて特にぷにぷにで…どうですか?」
「さあな」
「もー、ちゃんと見てくださいよ」
「毎日見とるけえ、わしにはわからん」
「え…」
「お前は本部でも艦でもこの部屋でも、始終ひっついとるじゃろうが」
「そう、ですね…」

ジョアナがどこかぎこちない笑みを浮かべたことに彼は気づかなかった。
寝るぞ、と言って部屋の明かりを落としたのが同時だったのだ。網膜に焼きついた照明の白さで、瞼を閉じていなくても彼女の表情はわからなかった。
肩の辺りに押し付けられた小さな頭を抱えた彼の手は、眠りに落ちるまでずっと彼女の髪を梳いていた。その動きが止まったあと、ジョアナはやはり彼の掌に頭を擦り付け、小さく喉を鳴らした。

×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -