いちとに
朝起きて飯を食う。
身なりを整え家を出る。
出勤し、日が暮れるまで働いて、買い物をして家路につく。
暇があれば本を読む。
熱い湯船にゆっくりとつかる。
そうして今日も一日つつがなく過ごせたことにも特別気づかず、眠気に誘われるまま床に入る。
朝また起きる。


繰り返し繰り返し、もう何年も何十年もそれを続けてきた彼に変化が訪れたのは一年ほど前のことだった。
兄のように慕っていた上官の忘れ形見を引き取り、彼女の後見人となった日から彼の日常は少し変わった。
朝早くから夜遅くまで仕事仕事の毎日に、年端のいかぬ子どもをひとり自宅に置いておくことは叶わなかったから、マリンフォードにある孤児のための施設のひとつに彼女を預けた。
毎日は無理だったけれど、時間を見つけては会いに行った。
十かそこらで家族をすべてなくし、ひとりぼっちになった彼女はそれでもすくすくと育っていった。そんな彼女の成長を見守ることが彼の生活に組み込まれたが、それにはもうひとつおまけがついた。

「やあ」
「あらモモンガさん、こんにちは。今日はお休みですか?」
「任務に変更があって急に非番になったんだ。アデルは?」
「お昼寝中ですよ」

摘み取ったハーブを籠に入れ、前掛けで手を拭いながらジョアナが立ち上がる。
大きな麦わら帽子を外し、にこりと微笑む彼女にモモンガも柔らかな笑みを浮かべた。

一年前、不安げな少女の手を引き、これまた不安げなモモンガがはじめてこの場を訪れたときにも、ジョアナはこれと同じ笑顔で彼らを出迎えた。
彼女はこの施設で働く職員のひとりで、子どもたちと共に過ごし、彼らの生活全般を支えている。食事の準備や入浴、勉強や遊びの相手など何でもだ。
二十を少し越えたくらいの若い女性がなぜこうも大変な職に就いたのか、モモンガは一度尋ねてみたことがあったけれど、ただ子どもが好きなんですと彼女は答えた。
ジョアナ自身がここの出だと知ったときには、なるほどそれで、となんとなく合点がいったものだった。

手を洗い終えたジョアナに向かって皆で、と言いながらモモンガは白い手提げの紙袋を差し出した。
不思議そうな顔で受け取ったジョアナがずしりと重たい中身の正体に気づくと、今度は申し訳なさそうな表情で彼を見上げ、こんなに、と遠慮がちな声を上げる。

「店先で見てたら食べたくなったんだ。男が一人分買うのも中々気が引けるだろう?」
「でも…こんなにたくさん…」
「それに、タイムセールで半額だったから」
「…そうなんですか…いつもすみません」

街に新しくできたドーナツ屋の箱が三つも入っていたら、彼女でなくとも驚くだろう。
いいんだ、と言いながらモモンガは微笑み、足元に置かれていた籠を代わりに持って入り口を目指す。
昼寝から起き出してきた子どものひとりを見つけ、おやつあるぞと言ってしゃがむ彼の広い背中に向けてジョアナは苦笑した。


「かもめの家」の子どもたちはモモンガさんが大好きだ。
彼がひとたび顔を出せば、誰も彼もが腕を引っ張る。海軍本部の将校ともなれば子どもからの人気は絶大で、尊敬や憧れの的でもあったしとにかく彼は優しかった。
いつだって誰に対してだって、彼は分け隔てなく笑顔を向けるし、要領を得ない幼子の話でもうんうんと頷きながら耳を傾ける。
たまの休みにこうして訪ねてきては半日、時には丸一日だって彼らと一緒に過ごしていた。
親をなくした彼らにとって、いわば父親のような存在で、今日も幼い子どもたちを三人も膝の上に乗せて彼は笑う。

「よし、今度はエレノアの番だ、おいで!」
「えー、ぼくはー?」
「順番順番!」

彼の後ろでは年長の女の子が二人、モモンガの長い髪を結って遊んでいる。それでも彼は嫌な顔ひとつせず、されるがままになっていた。
眠たい目を擦り、小さなあくびをするアデルの手を引きながら広間を覗いたジョアナが見たのはそんな光景だった。

「アデル!元気にしていたか?」
「…ん、モモンガさん…おはよ…」
「もう…そんなに皆で抱っこしてもらって…モモンガさんが大変よ」
「いやー、軽い軽い」

まだ半分寝ぼけているアデルを片手で引き寄せ、こてりともたれ掛かるのも難なく受け止める。
そう言ってこの前は何人もの子どもたちにのし掛かられて埋もれていたのに、と苦笑するジョアナに、君もどうだろうと言って彼がドーナツを差し出した。

優しいひと、とジョアナはこころの中で繰り返した。粉砂糖がまぶされたひとつを受け取り、同じようにアデルにも持たせているモモンガを見やる。
前回はクッキーだったし、その前は葡萄だった。絵本や玩具のときもある。
たくさん貰ったからとか買いすぎたからとか、出先で見つけて珍しかったからつい、だとか。ほんとうはそうではないのだと、誰からもすぐに見破られそうな理由で、しかし満面の笑みで毎回差し出してくる。
今回だってそうだ。この店は味の評判もそうだけれど安売りをしないことでも有名で、こんなに大量に買う人などそうはいない。
そう考えると子どもたちのように素直には喜べないけれど、彼の好意なのだから結局はいつものようにありがたく受け取ることになるのだった。


しばらくするとおやつを終えた子どもたちが外で遊びはじめ、部屋に残ったのはジョアナとアデル、それにひとりではまだ出歩けないような幼子がふたりとモモンガだけだった。元気盛りの男の子に声をかけられたものの、まだこの子らと遊んでいないからと言って硬いソファに腰かけたままの彼は先ほどから赤子相手に百面相をしてみせている。
手を叩いて喜ぶ子どもの横で夕飯の献立を考え、空になったカップを下げようとジョアナがテーブルに手を伸ばしたとき、その動きを無意識に目で追っていたモモンガが深く息を吸い込んだ。
目で見たのではなく耳でそう感じ取ってはいたが、彼が次にとった行動に彼女は心底驚き、思わず息を止めた。
ほんとうに、ごく自然に、彼はジョアナの手を取り、まるでその甲に口づけでもするかのように自らの口元まで持ち上げたのだ。

「あっ…あの…」
「タイム」
「え…?」
「タイムの香りがする」

いい香りだと言って屈託のない笑顔を向けるモモンガにジョアナは赤面し、慌てて腕を引っ込めた。
ぎゅうと握られていたわけではなかったから、彼の大きな掌からは難なくすり抜けることができたのだけど、硬い皮膚の感触や思いのほか暖かな体温はいつまでも彼女の右手に残っていた。
目をぱちくりとさせたモモンガや子どもたちにも構わず、盆を手にした彼女はその場から逃げるようにキッチンへと向かった。
ハーブの香りを嗅ぎ分けることのできる男などほかに知らなかった。けれど彼女の動揺はそれが原因ではなかった。

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