いちとに 2
一雨来そうだな、と空を見上げ、重たい木箱を軽々と抱えてモモンガは艦から降り立った。先ほどまであんなに晴れていたのに、今は空全体が灰色の雲に覆われている。
やや足早に住宅街を抜け、彼が目指したのは軍の詰め所でも本部でもなく、街の外れにあるかもめの家だった。
昼食の時間にはまだ少し時間がある。思った通り、子どもたちは皆園庭で遊んでいて、気づいた何人かが名を呼ばわりながら駆け寄って彼を見上げた。

「モモンガさんだ!こんにちは!」
「こんにちは、今日も皆元気そうだな」
「モモンガさん、それなあに?」
「スイカだよ。でもまだ冷えてないからな、先生に頼んで冷蔵庫に入れてもらおう」
「うん!せんせーい!モモンガさんが来たよー!」

二月ぶりに会う子どもたちの頭を撫で、向こうの砂場で山を作る幾人かに手を振り、真正面から飛び付いてきたアデルを抱き止めて笑顔を向ける。
一通り言葉をかけ終えたモモンガは顔を上げ、辺りをぐるりと見渡すと誰にも気づかれないようにため息を漏らした。
洗濯籠を抱えた施設長を見つけて礼をし、お久しぶりですと声を掛ける。

「今度も長かったですねえ、アデルちゃんがお待ちかねでした」
「ええ、西の方まで行っておりまして。これ…あちらの特産らしいのですが、あとで皆で食べてください」
「あらあら、また…よろしいんですか…?」
「どのみちひとりでは食べきれませんから」
「いつも子どもたちのためにありがとうございます」

どうぞ、とひとのいい笑みを浮かべたドナに促され、広間へ通される。次々に子どもたちや職員が顔を出し挨拶を交わすけれど、モモンガが探す人物は建物の中にもやはり居なかった。
踏み台を持ち出してきた子どものひとりに代わって物干し用のロープをくくりつけ、まだ少し湿ったジーンズを引っ掛けながらひとの居なくなった園庭を眺める。

「ジョアナならついさっき出掛けましたよ、雨が降る前にって」
「そうですか…」
「すれ違いね」

小さな寝巻きを幾枚も吊るしながら微笑むドナに、もごもごと曖昧な言葉を返す。親ほど歳の離れた彼女はいつだって何だってお見通しで、訪れたときからきょろきょろと落ちつかなげなモモンガは苦笑を浮かべて頭を掻くしかなかった。

二月前に彼がここへ来たときにも、ジョアナは不在で会うことができなかった。ここへ来れば必ず顔を合わせていたのに、彼女に会えなかったのはそれがはじめてのことだった。
たまたまだったのかもしれないが、二度も続いたのだからこれはいよいよ嫌われたか、と肩を落とす。原因は前回の訪問からさらに一月前、彼はどうも彼女に不快な思いをさせてしまったらしかったからだ。

らしい、と言うのは彼女からも誰からもそうとは聞かされていないからで、しかし考えれば考えるほど己に非があったのだろうと思えてならない。
あの日、彼は何の気なしにジョアナに触れた。ハーブの香りに誘われて、ほとんど無意識にそうしてしまった。
そのときの彼女の顔は、照れだとか驚きと言うよりむしろ切迫した表情で固まっていて、するりとすり抜けられたあとは彼が帰るころまで姿を見ることができなかった。その帰り際ですら子どもたちの後ろに隠れていて、ろくに声を掛けることができなかったのだ。
嫌な思いをさせてしまったのなら、せめて非礼を詫びたい。そう思ってから早三ヶ月、いまだジョアナの顔すら見ることができなくて、モモンガの胸のつかえは取れないままだった。


勧められるまま子どもたちと昼食をとり、ひと息ついてもまだ彼女は帰ってこなかった。
空は相変わらず分厚い雲に覆われていて、昼間なのにずいぶんと暗く感じる。
食後すぐに子どもたちが始めたパズル遊びに付き合っているうちにアデルが隣でうつらうつらし出し、気づいたモモンガが抱え上げて部屋まで行ったころにはとうとう降り出してきてしまった。
雨に気づかなかったアデルの穏やかな寝息を聞いて安堵し、毛布を掛けてしばらく頭を撫でていると後ろから足音が聞こえてくる。

「アデルちゃん、大丈夫かしら?」
「ええ…降り出す前に眠りましたので。ありがとうございます」

こちらを振り返って眉尻を下げたモモンガが、まるで留守番をさせられた仔犬のように思えてドナがくすくすと笑った。
これはそう、主人が帰ってきたと思ったら全くの別人だったという落胆の表情に似ている。窓の外をじっと見つめるさまも、まさに犬のそれに見えて仕方ない。
気もそぞろな彼は彼女の控えめな笑い声にも特に気づかず、子どもの頭を撫でているはずの右手が少しずれて枕を撫でていることにも気づいていなかった。
よく降りますね、と言うと、ええ、と短く答える。遅いわね、と呟くと、遅いですねと鸚鵡返しにされる。
それが急に顔を上げ、もしかしてと独り言にしては大きな声でモモンガが言ったものだから、苦笑して立ち去りかけていたドナは驚いてぴたりと足を止めた。

「もしかして、ジョアナ先生は傘を忘れたんじゃないですか?」
「え?あ、ええ、そう言えばあの子、持っていかなかったわね…それで帰ってこられないのだわ」
「それはいけない、昼食もまだなのに。私がひとっ走りして届けましょう。すみませんがアデルをお願いします。起きてくるまでには戻ります」

では、と短く言って立ち上がったモモンガは、おおよその目的地だけを聞くと上着も何も持たずに出ていった。傘も彼の差している一本きりしか持っていかなかった。
嵐のように去っていった方をしばし見つめながら椅子に腰掛け、あわてんぼうねえ、と眠るアデルに語り掛けたドナは、にこにこと微笑んで乾いたタオルを膝の上で畳み始めた。


駆けるまではしなくとも大股に歩き、跳ねる泥水など気にも留めず彼は街へ向かっていた。
強まった雨の所為で思いのほか視界が悪い。道行く人々や店の軒下で雨宿りをする者たちの中にジョアナと似た背格好の女性を見つけては速度を緩め、近づいて違うとわかるとまた足を早める。
もしかしたらまたすれ違ったのかもしれない。ここのところのタイミングの悪さを思うに、タイミングだけではなかったのかもしれないけれど、もう帰ってしまっているのかも。
路地を右に左に、裏道まで覗き、うっかり街を通り過ぎて本部の裏側まで回り、居るはずもないのに港まで足を運んではまた引き返し。
そうしてようやく本屋の前でぽつんと佇む彼女の姿を見いだしたとき、彼はため息をついてゆっくりと近づいていったのだった。

「ジョアナ先生」
「モモンガさん!どうしたんですか?!」
「傘を届けに。でも忘れてきてしまった」

だからこれで一緒に帰ろうとまでは言えず、差してきた傘を畳んでモモンガも軒先に並んだ。顔を見てすぐに俯いてしまったジョアナは彼と一定の距離を保つように場所を明け、雨垂れにほとんど濡れてしまいそうになっている。
手提げ袋の取っ手を弄りながら手元ばかりを見つめていて、同じように傘の先から滴った小さな水溜まりを見つめて項垂れた彼の様子にも気づかない。
お互い何を話したらよいのかわからなかった。モモンガの方でははっきりしていたが、いざ顔を合わせたら散々考えた謝罪の言葉も何故か出てこなかった。
そもそもこうして二人きりになることなど今まで一度もなかったし、外で会うのも初めてだった。二人の間には必ず誰か、子どもたちなりほかの職員なりが居て、会話に詰まることなどなかったのに。
出てきたときの勢いは最早ない。数分の後、どうにも気まずい空気を打ち破るために咳払いをし、意を決してモモンガが口を開いた。

「あの…この間はすまなかった…」
「え…」
「なぜあんな…自分でもよくはわからないんだが、とにかく君に嫌な思いをさせてしまったようだし…本当に申し訳ない」

話し始めたら次々に言葉が溢れてきた。
施設の中にはそれまでの出来事が原因で大人の男や軍人を怖がる子も少なからず居るし、あの子達もずいぶん慣れてくれたけれど君ももしかしたらそうだったのかもしれない、それなのに無遠慮に触れてしまって申し訳ない、失礼だったし配慮が足らなかった、今後は気を付けるからどうか許してほしい。
戸惑うジョアナが止める間もなく彼はここまで言い切った。
言い切っても何の反応も得られず、仕方ないだろうなと心の中でひとりごちて肩を落とす。そうしてまた訪れる沈黙。いたたまれない。
傘だけ渡して帰ろうとモモンガが顔を上げると、真っ赤な顔をしたジョアナと目が合い、彼は差し出しかけた右手もそのままに一切の動きを止めた。

「あっ…あの…違うんです…」
「え…?」
「そうじゃないんです…」
「何が…」
「私…自分の手が嫌いで…」
「手が嫌い…?」
「はい…指は太くて短いし…掌も分厚くて女の手じゃないみたいで…」

それに、荒れているし、と小さな声で呟き再び下を向く。後ろに隠すまではしなくても、袋を持ったままの両手は腹の前で固く握りしめられていた。
確かに少し荒れているかもしれないけれど、それは仕事柄食器洗いやら洗濯やら、普通の家庭でやるよりも遥かに多い量をこなしているからだろうし、彼女が言うように指が太いだとか短いだとか気にしたこともなかった。
目を丸めたモモンガは一度ゆっくりとまばたきをし、間を開けて右手を下ろすとああと声を漏らして天を仰ぐ。

「よかった」
「…え?」
「君に嫌われたんでなくてよかった」

顔を上げたジョアナは、心底嬉しそうにそう言ったモモンガの横顔をまじまじと見つめて狼狽えた。
ほんとうによかったと繰り返し、しまいには肩を揺らして笑い出した彼にますます困惑してしまう。

「すまない、君の悩みを笑っているわけじゃあないんだ。自分の勘違いっぷりが可笑しくて…」
「いいえ、いいんです…なんだかこちらこそすみません…」
「とんでもない。いや、でも、それこそ君も気にすることないと思う」
「でも…昔からコンプレックスなんです…丸いし、子どもの手みたいで…イレーネ先生みたいなほっそりした手が羨ましくて…」

もじもじと指先を隠して三度俯いたジョアナを、モモンガは穏やかな表情で見下ろした。
勝手に思い悩んでいたのが馬鹿馬鹿しい。早くこうして話せばよかった。そうしたら彼女もこんなに自分を避けなかっただろう。
ただ、きっと彼女にとったらそれほどに深刻なことなのだ。ひとからしてみたら大したことではなくても、本人にとっては人目をはばかるほどの問題なのだろう。コンプレックスくらい、誰にだってひとつはある。

「実を言うと私も、自分の顔…特に笑った顔が嫌いでね」
「え…どうして…」
「これの所為なんだ」

そう言って彼は己の目尻を指差し、いつものようににこりと微笑んだ。自身の笑顔を嫌うひとなど今まで出会ったことがなかったし、いつも笑顔のひとがどうしてそんなことを言うのかがわからず、ジョアナは困り顔のまま彼を見上げるしかない。
皺がね、と長い人差し指で目尻をとんとんと叩き、それでもわからない彼女に一層柔らかな笑みを浮かべて彼が続ける。

「入隊したてのころ、笑うとここに皺ができて爺みたいだとからかわれたことがあった。その所為でしばらく笑えなかったよ」
「そんな…全然気にされることなかったのに…」
「ん、まあ、今ならくだらんと笑い飛ばせるし…名実ともにオヤジだから文句の言いようもないが、当時は傷ついた」

まだ十代だったし、と照れ臭そうにモモンガが笑う。
意地になってしかめ面でいたら、今度は眉間に皺がよってなおさら爺臭いと言われた。
面白がった上官からは、いっそ開き直って髭でも蓄えてみたらどうかと言われ、自棄になってそうしてみたら意外にしっくりきたから今でもこうなのだ、と。
それを聞いてジョアナがくすりと微笑んだ。久しぶりに見た彼女の笑顔に、彼の目尻の皺がさらに増える。

「私は好きですよ、モモンガさんの笑った顔」
「ありがとう。それに、私に言わせれば君の手は小さくて柔らかくて実に女性らしい。大好きだ」
「あ…ありがとうございます…」

さて、と言ってモモンガが右手を差し出した。ジョアナが何か言う前に、隠されていた彼女の左手を優しくとると雨の中に一歩踏み出した。

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