sink
あまりにもその感覚が久しぶりすぎて、「沈む」という言葉が出てくるまでに数秒を要した。着水からのその数秒で全身が波に飲み込まれ、目の前は無数の白い泡と眩い光に埋め尽くされる。時折その隙間からひとの腕やら足やらが突き出すのが見えたが、一緒に落ちた何人かが縋るものを求めて必死にもがき水を蹴っていたからだ。ダルメシアンはひどい脱力感と息苦しさに両手で口元を押さえるのが精一杯で、徐々に彼らからも水面からも引き剥がされていく。


もう二十年は前だろう、まだ下のきょうだいも生まれていなかった、自分が末っ子として何処へ行くにも兄二人にくっついていたころ。
島に浜はなく、海に面したところは切り立つ崖や岩場ばかりで、水遊びと言えばもっぱら川や湖でのことだった。魚獲りのついでに潜ることを覚え、浅瀬で泳ぎを教えてもらう。熱心な兄たちのお陰で、同じ年の頃の子供たちの中では水泳は誰よりも得意だった。楽しくて仕方なくて、夏の暑い時期は毎日のように通っていったものだ。中でも楽しかったのは水の深い所での飛び込みだ。桟橋や大きな岩の上で思い切り勢いをつけ、ぐっと踏み込み膝を抱えて尻から落ちる。ばしゃん、と派手な音が立ち、白く泡立つ水の中を下へ下へと沈んでいくが、しばらくすれば身体は勝手に浮上する。
そう、あの頃は苦もなく浮き上がることができた。

弟と妹とは一回りも違う。入隊した頃はまだほんの子供で、帰省するたびにどんどんでかくなっていった。あまり構ってやれなかったのによく懐いてくれて、座れば膝の上に陣取り立ち上がろうとすれば背中に張り付き、歩けば肩車をしてくれと何度もねだる。飯も風呂も眠る時も、何をするにも一緒がいいと甘えてきた。多少の無理だって聞いてやりたくなる、可愛くて小さなきょうだいたち。
今だってまだまだ子供だ。成人するまで何年もある。

子供はあんなにも甘えるのが上手で、すぐに自分の居場所を見つけられるというのに、彼女はそれが本当に下手くそだった。
大佐の不器用さには出会って間も無く気づくこととなったが、これはいつになっても何を言おうとほとんど変わらなかった。他を頼らず、自分だけで何とかしようとしてやりきれなくて、それでよく今までもっていたものだと呆れるほどに。
例外はひとつ、こちらが犬になっている時だ。ヒト相手には言えないことでも、フィフィ代わりのおれになら打ち明けることができたし、文字通り寄りかかることもできた。人型でいる時は隣に掛けようともしない彼女が、だ。あの当時、ジョアナには気が置けない仲間や友人なんて居なかったのだろう。居たのなら、おれと出会ってもこうはならなかったはずだ。


苦しい。酸素が欲しい。気を抜くとすぐに手を離してしまいそうになるが、とにかく水を飲んだらいけないと、ガンガンとひどい音が鳴り響く頭の中で必死に己に言い聞かせる。もう沈んでいくしかないのは分かってはいるが、往生際悪く少しでも助かる道を探した。手を離すな、意識を保て、目を見開いていろ。


ジョアナはひとと目を合わせるのがとても苦手だった。ちらと見ることはあっても見つめることはできない。笑えるのは、ヒトと、だけだったこと。やはり犬相手なら問題なく合わせることができた。むしろじっと覗き込んできては、何がそんなに楽しいのかいつもにこにこと笑っていたくらいだ。笑顔自体も珍しい、滅多に見せない表情だった。らしい。彼女を指して「女王」と言う者たちからすれば、そんな一面は滅多にお目にかかれない大変貴重なものなのだとか。こちらは出会った瞬間に泣き顔を見てしまったくらいだから、表情の変化に乏しい印象ははじめからなかったけれど。

それでも彼女の怒った顔は知らない。何か無茶を言っても、困った表情は見せるが怒りはしなかった。内心はどうあれ、市民相手に暴れる海賊どもの前でも多少眉根を寄せるくらいだ。部下たちが何かやらかしたり恋人がからかったくらいでは何ともない。いや、もしかしたら、人質をとった敵船に単身踏み込んでいったあの時は流石に怒っていたかもしれない。確かしばらく口を聞いてくれなかった。能力と見聞色で何とかなると言っても、そう、としか返されなかった。ああ、あれはやっぱり怒っていたな。人質もおれも無事だったけれど、そういうことではないってことなのだろう。

能力者ではなかったし、特別秀でた覇気を持っているわけではなかった。それでも大佐の地位にあり続けたのは、人並外れた捕縄術とひとを惹きつける力とにある。どちらも捕らえたら逃さないことには変わりないが、後者は彼女の意思に関係なく発揮されていたものだから仕様が無い。部隊員の大幅な入れ替え時にただの崇拝者は排除したが、今度はただでは済まないような崇拝者ばかりが集まった。いつだったか、配属初日に鞭の実演を懇願した猛者もいる。その隊員自身が的になると言って。色んな意味で止めさせたが、恐ろしく阿呆なその男は恐ろしく有能でもあったから、彼は今でもここに所属している。


だんだん暗くなっていく。耳鳴りも遠くなっていく。
白い泡はほとんど消えた。水面にちらつく日の光は見えた。指の隙間から漏れ出た大きな泡が、ひとつ、ふたつと上っていく。


散歩の名目でそこらじゅうを歩き回った。本部で、出先で、陸のないところでは甲板で。ジョアナのお気に入りは夕方の波打ち際だったが、こちらからすれば砂が毛皮に入り込むわ下手すれば全身ずぶ濡れになるわで散々だった。虫の居所が悪くて、あの日は確か早々に切り上げて遊歩道近くのベンチに腰を下ろした。違う、単に焼き付くような砂の熱さに参っただけだ、あの時は夕方でなく昼過ぎだったのだ。そこだけは丁度よく木陰になっていて、吹き抜ける風も涼しかった。ひりつく足を舐め…てない、彼女が濡らしたタオルを持ってきた。気休めだがそれで冷やして、一通り文句を言って、腕を組んで一息ついた。ちらちらと光る木漏れ日の中、彼女はこちらを窺うようにして突っ立っていた。そこで気付いて、人獣型から獣型へ戻ってやった。そうしないと中々隣に来ないのだ。

それでも何ヶ月かかけて慣らしていった。一年だったかもしれないが、やればできるものだと思った。
はじめは、ただ話を聞いているだけだった。ジョアナが何か言おうが言葉に詰まろうが、こちらからは一言も喋らず黙って隣に座っていた。ジョアナが大佐に戻るまで、気持ちが切り替わるまではずっとそうしていた。これを時々やめることにした。獣型でも人語で相槌を打ち返事をし、言い淀むそぶりを見せれば先を促した。最初は驚いて黙ってしまうこともあったが、その内それも普通になった。次に人獣型でも試した。背中に寄りかかる彼女が気づかないように、そっと姿を変えた。そうして、隣に座る半獣相手に何でも言えるようになった頃、今度は完全に人型で話を聞くことにした。知らぬ間に人間相手に打ち明け話をしていたことに気づくとやはり黙ってしまったが、それもほんの数回だった。しばらくしたら、人型だろうと隣に居ることができたし、犬に話しかけるのと変わらないくらいにもなっていた。

それから半年は経ったから。
つい二日前、並んで歩いていたジョアナが子供の頃の話をしていた時、出先の島の中心地で偶然教会を見つけて彼女を連れていった。半分思いつきだったが、いずれはこうするつもりだった。何事か把握しきれていない者に宣誓させるのは流石に気が引けたから、真正面に向き直って一言ずつはっきりと言ってやった。結婚するぞ、今から。おれとあんたとに決まってるじゃないか。ドレスが着たけりゃ、帰ってから選べばいい。
誓いの言葉と証明書のサインだけで済ませた。保証人は、たまたま外に居た部下の一人に頼んだ。ジョアナ以上に状況が把握できていなかったが。


だから、このまま死ぬわけにはいかない。
「死が二人を分かつまで」?
たった二日で分かたれてたまるか。


歯を食いしばって口元から手を離し、ゆるゆると水を掻き分けた。下になっていた頭を上向け、閉じかかっていた瞼も持ち上げて。水面の光の間に船の残骸と浮かぶ人の身体とを見つけ、あそこに辿り着けさえすればと力の出ない足で何とかもがいた。
そして、ふと気づけば頭上のひとりが消えていた。急に上から引っ張られたような、波に漂う本人の意思とは別に働く何かによって引き上げられたように見えた。すぐにひとり、またひとりと消えていく。そうしてとうとう水中に取り残されたのは己だけになり、まずい、と思った瞬間、水面を打つこもった音が耳に届いた。治まったはずの白い気泡が大量に広がる。また何か、誰かが、落ちてきた。


目を開いたダルメシアンが見たものは、ずぶ濡れのジョアナが今まさに平手を振り上げたところだった。気付けのためだと信じたい。ということは、多分気を失っていたのだろう。ここはもう水の中ではない、背中の下には硬い甲板がある。
勢い良く振り下ろされた彼女の片手を捕まえ、そのままぐいと引き寄せた。驚いた彼女が悲鳴を上げ、周りからどよめきが聞こえたけれど、まったく構うことはない。

「ああ…あんたが…」
「ちょっ…と!ダル君!!大丈夫?!」
「大丈夫…だな…戦況は…」
「もう終わっ…それよりも!水!吐いて!」
「飲んでない…けど、鼻が痛え…」

強風に煽られ、届かぬロープや浮き輪に見切りをつけて鞭を振り下ろしたのは彼女だった。波間に浮かぶクルーがそれを腕に巻きつけ、強く握り締めたところで思い切り引き上げた。全員助けたはずが、最後のひとりが咳き込みながら「まだ中佐が」、と言った途端にジョアナは海へ飛び込んだ。脱力して沈みゆく彼をすぐに見つけ、身体に腕を回して掴み、両足の力だけで水面を目指した。

「よかった…もうどうしようかと…」
「ほんとにな…まあ、でも…いい経験だった…」
「いいわけないでしょう!」
「いや…この世に未練があると…生きることに執着するってのがよく分かった」
「…そう…」

怒ったかもしれないが、泣いていたのかもしれない。濡れていてわからない。もうどっちでもいい。なんだっていい。
あんたが居るなら死にはしないさ。夢にまで出て引き止めてくれるんだから、きっとこの先も大丈夫だろう。

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