いつもここは晴れ
アラバスタの強い日差しが雲に遮られ、さあさあと細かい雨が降り始めたのは午後を少し過ぎた頃だった。そのまま強まるでもなく、かと言って止みもしない灰色の空を眺めていたから、部屋から持ち出した小説は最初に開いた時のまま肘の傍に置かれている。東屋の屋根の下に降り込んでくるほどでもない、しかしあれだけ乾いていた空気は湿り気を帯びて重たく、静かだった。風も少ないから、とぼんやりと考え、それでも時折肌寒さを感じてずり落ちたショールを引き上げる。この数十分でビビがしたのはそれだけだ。
何か、時間があれば読書のほかにもやりたいことがあったはずなのに、それが何だったのか思い出せない。思い出せないのなら、別に今でなくてもいいんだわ、と彼女にしては珍しくゆっくりと思考を切り替え、左でついていた頬杖を右に変えてなおも濡れた庭を眺め続けた。黒い石も黄色い砂も赤と薄紫の小さな花も、みないつもより濃く鮮やかに見える。だから、なのか。緑の木々の間にちらちらと見え隠れした白いものは、薄い帳を下ろしたような霧雨の中でもことさらにビビの目を引いた。

「失礼いたします」
「なあに?」
「お茶を取り替えに参りました」

冷めたポットとカップを下げ、新しいものを並べた大きな手はいつもの女官のそれではなかった。遠くから見えていた白い服だけではなく、近付く足音と低い声音でも分かってはいたから、上擦る声の調子を隠しもせずにビビは彼の名を呼んだ。よいお日和で、と応えたペルの穏やかな微笑みが嬉しくて、彼の倍以上の笑顔でほんとうに、と続ける。

「お寒くは」
「今は全然。ね、カップが二つあるわ」
「最初からこうでしたから、どなたかいらっしゃるのかと思っていたのですが」
「ペルの分じゃない?」
「さあ…テラコッタさんは何も。手隙の者が居ないからと、通りすがりに手渡されただけでしたので」
「じゃあやっぱりあなたの分ね」

立ったまま茶を注ぐペルを見上げると、よろしいのですか、と言って彼は苦笑した。何か理由をつけながら一歩も二歩も引き下がりそうな副官が、勧められるままベンチに腰を下ろしたのはビビには少し意外だった。久しぶりの雨で気分が良いのかもしれないし、もしかしたら二人きりで過ごすことに少し慣れてくれたのかもしれない。どちらなのかは分からなかったけれど、どちらでも構わなかった。同じ目線の高さで彼の顔を間近に眺められる機会なんて、そうあることではない。ミルクも砂糖も入れない紅茶を一口含み、すぐにカップを下ろしたペルの様子にまた笑みがこぼれる。彼は多分猫舌なのだ。それに気づいたのは最近のことだった。

「先ほど全て片付いたのです」
「え?何?」
「今日の分の仕事です。あなたはいつも気を遣ってくださるので、失礼ですが先回りを」
「そんなにいつも同じ事言ってる?」
「ええ、毎回」

「いいの?お仕事は?」。思いがけなく彼と過ごす事が出来る時、ビビはいつだってそう聞いた。副官が執務や任務の途中で抜け出すことなどまずないのだから、彼の答えがいつも同じになることも分かっていた。分かっていて、それでも聞きたくて、きっと今回は言葉よりも先に表情に出てしまっていたのだろう。練兵場も人はまばらでしょうし、と彼が続けたのは、ビビが決まってその次に尋ねる「お稽古は?」に対しての返答だ。これも顔に書いてあったに違いない。
いつも通りのようでいつもとは違うやり取りのあと、ビビはそれまで眺めていたペルの横顔から視線を外して再び外を見やった。雨は相変わらず弱く、しかし途切れることなく降り続けている。時折濡れた木々の葉がその重みに耐えかねて跳ね返り、いくつもの雫を振り落としてはまた沈黙した。その微かな空気の動きを肌でも感じ取れるほどに静かだった。だから、少しの間を置いて彼の目線がビビとは全く逆の道を辿ってきたことにも気づけたのかもしれない。木の葉から木々を、木々から庭を、鮮やかな庭から灰色の空へ、そしてこちらの横顔へ。いつもであれば、ペルの視線はそのまま彼自身の手元に下されるはずだった。しかしいつかの彼の言葉を借りるのであれば「無遠慮」なその振る舞いはいつまでも止まず、何か言えばきっとそこまでだろうと分かっていたけれど、ビビはこそばゆさにはにかんで垂らした髪を耳に掛け直した。

「もっときちんと編み込んでおけば良かったわ」
「…え?あ、いえ、失礼しました…何でしょう」
「髪をね、今朝は自分で適当に結っただけだから、崩れてきちゃったみたい」

湿気もあるし、と続けたビビの笑顔を正面からまともに見直し、ペルはそこでようやっと言葉の意味に気がついた。反射的に目を伏せ、ご無礼を、と言いかけて口ごもり、何か別の言葉を探そうとしてうまく見つけられずにいる。先日ビビが副官の臣下らしい態度にわざとらしく拗ねたことが効いているのだろう。咎めたんじゃない、遠慮なんかしなくていいのに。そう言って少し困らせたのだ。せっかくだから、もう少し困らせてもいいだろうか。何と申し上げたら、と呟くペルの湿った服の袖にそろりと指先を伸ばし、さらにその先、カップに添えられていた長く節くれだった指にも触れて目線を合わせる。

「ビビ様」
「大丈夫よ、ここなら何処からも見えないし、誰も来ないし」
「私はひとに言われて参りましたが…」
「お茶のあとは呼ばなきゃ誰も来ないの」

実のところある部屋からなら望むことはできるし、こちらからひとの出入りを特別禁じているわけでもなかったが、きっとペルはそれを知らない。物言いがはしたないと窘められるかもしれないけれど、彼はわずかに眉根を寄せただけで腕を引っ込めようとはしなかった。だからビビは雨音に混じる彼の息遣いに耳をそばだて、今度は口を噤んでじっとしていた。すうと吸い込んだ息を一瞬止めて吐き出して、何かを言いかけてはやめているのだろう、彼の薄い唇がその度に少し開かれる。そうして一分か二分か、再び庭を見やって黙り込んでいたペルがため息混じりに苦笑し、視線を戻しながらそっと掌を上向けた。ビビの手の甲を親指の腹でひと撫でし、揃えた指先を柔らかく包み込む。

「先週の火曜もこちらへ?」
「居たかもしれないけど、どうして?」
「どうりで見つからないわけだと思ったのです。あちらの回廊までは来ていたのですが、確かに向こうからではここは見通せません」
「探していたの?何かあった?」
「いいえ、ただの思いつきです。あなたに会いたかった」

こちらから始めたことなのに、彼から触れられただけで心臓が大きく飛び跳ねた。そうと悟られないように平気な顔をして会話を続けたけれど、それもほんの数秒で崩れてしまう。指先からじわりと伝わる熱も真っ直ぐに向けられた視線も、ビビの頬を赤らめさせるには十分だった。それに、彼の思いがけない言葉も。一目顔を見たい、一緒に過ごしたいと、時々心当たりの場所を探して回っていたのは自分だけではなかった。それが単純に嬉しくて、でも単純すぎる気がして、取り繕いたい気持ちが冗談めかした台詞となって紡がれる。

「ペルでも人探しに失敗することがあるのね」
「飛んだとしても屋内では見つけられませんから、いつも歩いて探しているのです」
「じゃあ今度からはもっと見つかりやすい場所に居なきゃ。あなたの時間が無駄になっちゃうもの」
「いえ、どうぞ今まで通りお好きなところへ。こちらも候補のひとつだとわかりましたし、それにあなたを探す時間が無駄だとは…むしろ楽しんでいます」

雨の日は特に、とペルは微笑み、空いていた左手を遠慮がちに伸ばしてビビの髪に優しく触れた。青空が恋しくなる、と囁き、空色のひと房を手に取とると密やかにそれに口づけた。


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