いつかきっと
ほんの気まぐれに始めたことなのに、気づくと時が経つのも忘れて熱中してしまう。それは副官の二人がチェス盤に向かうとよくあることで、今夜もまた彼らは白と黒の駒を前にもう何戦か交えていたところだった。その日の仕事は既に片付いていたし、練兵場の改修工事が行われているここ数日は夜になると特にやることもない。気のおけない者同士のくだけたやりとりの所為か、いつしか二人のゲームはちょっとした賭け事に変わっていった。明日の昼飯を奢れだの空になった茶のポットを取り替えてこいだの、そこらの若者のような他愛のない会話は彼らの部下たちが見たら目を丸めそうだが、閑散とした遊戯室を訪れるものは誰もいない。だからあと数手で王手をかけられそうだと踏んだチャカは、目の前であれやこれやと呟きながら盤上へ視線を落とすペルを見やって口を開いた。

「なあ、この間はずいぶん遅くまで出歩いていたようだが」
「いつの話だ」
「王女が東の街へ行かれた日だ、お前迎えに行っただろう」
「ああ、西からの風が強かったからな。カルーの足でも少し時間がかかった」
「それだけか」

それだけさと返したペルの表情は平静そのものだったが、長い付き合いの相方は彼の些細な変化に気がついて口角を上げた。隼の薄い眉が持ち上げられ、駒ではなくどこか遠くに視線を漂わせたように見えたのだ。それを見逃すジャッカルではない。ようやっと次の一手を決めたペルが白いルークをつまんで動かすが、チャカに有利な局面は変わりそうもなかった。すかさず黒いナイトで仕留め、だらしなく机に肘をついて彼は面白そうに言葉を続ける。

「あの日からこっち、ビビ様はずっとにこにこしておられる」
「そうか」
「わかりやすいなお前」
「…気持ち悪い顔をするな」

やけくそ気味に駒を進め、にやつくチャカを睨み付けるが彼は意にも介さない。脇に避けてあったカップから冷めた茶をすすり、参ったと言いそうになるのをぐっと飲み込む。何に参ったのだと聞き返されるのが落ちだ。

「いつまでおれの顔を見ているつもりだ…お前の手番だぞ」
「ん、ああ…おや、ビビ様」
「その手は食わん」
「二人とも、こんなところに居たのね」
「ビビ様!」
「チェック」

王女の声に驚き、さっと振り返ったペルはもう一度卓の上へ顔を向けた。詰んだキングの向こうで立ち上がったチャカが、笑いをこらえつつも優雅な仕草で一礼をして彼女を迎える。勿論いかさまなどしていない、あくまで正攻法で勝ち得たのだ。だから何を言われる筋合いもないぞ、と言わんばかりのしたり顔で彼は相方を見返した。

「楽しそうね、どっちが勝っているの?」
「二勝二敗でしたが、今ので私が勝ち越しました。ビビ様のお陰です」
「私は何もしてないわよ。ねえ、また何か賭けてたの?」
「はい、二日分腹一杯になるまで食べさせてくれるそうで。そうだ、折角ですから最後の勝利はあなたに捧げましょう」
「おい、何を…」

何もしていないのに?と繰り返す王女に爽やかな笑顔を向けたチャカは、呆気にとられたペルを横目で一瞥してその場を辞することにした。ことによってはこいつの褒美になりかねないかも、とは言わなかったが、可笑しそうに顔を歪ませておやすみなさいと礼をする。それを見送った王女がくるりと振り返り、どこか落ち着かなげに駒を片付け始めた副官へすっと近づいて彼を見上げた。

「参考までに聞くけど、ペルは何を勝ち取ったの?」
「紅茶一杯と…半日分の休暇です」
「じゃあ明日の午後は非番なのね」
「ええ、そうですね…」

にっこりと笑った王女に曖昧な笑顔を浮かべたペルは、さて何を言われるのだろうかと身構える。だから彼女から提案されたあまりにも簡単な「お願い」に、彼は拍子抜けしてそんなことでよろしいのですか、と思わず口にした。言ったわね、と悪戯っぽく返したビビは、楽しみにしてるわと続けて転がるポーンのひとつをペルに手渡した。

翌日、街一番と評判の定食屋から同僚のもとへ大盛の弁当を飛んで届けたペルは、今度は歩いてその街に向かっていた。ひとりではなく、約束をした王女とふたり、賑やかに並ぶ露店と露店の間を行ったり来たりしては彼女に付き従った。王女が宮殿の外を出歩くのはよくあることだし、カルー以外の供が居たって不審がる者は誰もいない。
彼自身、何度も同行していて慣れているはずなのに、どうしてか今日は周りが気になって仕方ない。

「ほら、また遅れてる」
「申し訳ありません…しかしどうにも…」
「そんなことって言ったのはペルよ?」

まだ解放してあげない、と言ってビビは彼の服の裾を引っ張った。並ぶとぱっとその手を離し、それ以上は腕を絡ませるどころか手を繋ぐことすらしない。そんなことをしたら流石に彼でも気が引けるだろう。思いが通じ合ったとは言え、人目をはばからず親密そうに振る舞うことはビビにも出来なかった。自分が出来ないのなら、彼にはもっと無理だろう。私の隣に並んで歩いて、と言う彼女の申し出は、控えめな副官をそれなりに気遣った末のお願いだったのに。

「難しいんでしょう、いっつも私の後ろに居るものね」
「当然です…あなたは」
「ただのビビよ、今は。ただのペルは、私の隣じゃ落ち着かない?」
「慣れていないだけですよ…」

言葉とは裏腹にどうにも落ち着かない様子のペルを見上げ、もうちょっと意地悪してやってもいいかしら、とビビは笑った。いつか、時間がかかっても良い。自分の隣を気負わず歩いてくれる日が来てくれればと願わずにはいられない。

「あ、見て!美味しそう!」
「え、ああ…そうですね…」
「パパが喜びそうだわ、お土産に買っていこうかしら。チャカにも何かお礼をしないとね」

瑞々しい果物が並ぶ店を見つけたビビが駆け出し、また距離が開く。人の間を縫って歩くペルが追い付いた頃には、既に籠から幾つかを手に取り快活な店主と談笑していた。それで、結局は彼女の斜め後ろに、いつもの定位置に立ってその長い空色の髪をぼんやりと眺めたのだった。日の光に照らされて輝く淡い青に手を伸ばしかけ、咄嗟にそれを押し留め、何て不甲斐ない男だろうと苦笑する。このたった数歩の距離を縮めようとしたのは自分だったのに、そう決めたつもりだったのに、どうしてそれが出来ないのだろう。こんなにささやかな願いすら叶えてあげられない。
そんなペルの思いを知ってか知らずか、袋に詰められた艶のある林檎を受け取って振り返ったビビは、今来た道を宮殿に向かって上機嫌に歩き始めた。その見慣れた後ろ姿をもう一度見つめ、ペルは小さく息を吐き出す。
彼女の歩幅は熟知していた。その歩くスピードも行く先も。だのにその距離が縮まらないのは、いつだってこちらが踏み留まってしまうから。彼女と同じ速度を保ち、付かず離れず、今までずっとそうしてきた。

「じゃあ帰りましょ。ごめんね、私の気まぐれに付き合わせちゃって」
「いいえ、とんでもございません。あの…よろしければもう少し歩いて回ってみてはいかがですか?」
「でも、折角のお休みなのに…あんまりあなたを拘束しちゃったら悪いわ」
「折角ですから、もっと拘束して頂いても構いません」

そう言って彼は大股に一歩を踏み出し、ビビの横に並んで紙袋を取り上げた。目をぱちくりさせた彼女がいいの?とことさら嬉しそうに問い掛けるのに笑顔で応え、まだ日も高いですからと顔を上向ける。いつか、これがふつうと思える日が来るのだろうか。先のことはまだわからないけれど、今はこうしていたいと思う。


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