ここよりも遠く何よりも近く
ここのところずっと塞いでいた妻が、今朝はずいぶん気持ちの良さそうな笑顔を浮かべて食卓へついたものだから、コブラも久方ぶりに晴れやかな笑顔で彼女を迎えた。
あの船の事故から一月は経つが、以来ティティは遠く西の方をぼんやりと見つめてばかりで、話しかけても上の空なことが多かったのに今日は彼女から色々と話してきてくれる。
どこかから入り込んだ仔猫を中庭で見つけただとか、護衛隊長の愛息が厨房で悪戯をして叱られていただとか、朝起きてから今このときまでの短い間にあった出来事を穏やかな声音で聞かせてくれた。

「それと、さっきそこでジェトさんに会ったの。お元気そうだったわ」
「ああ、私も昨日会ったよ。大変なときに申し訳ないことをしたが、彼のお陰で南の砦も大事ないそうだ」
「そのようですね」

同郷の副官と言葉を交わして元気付けられたのだろう。嬉しそうに籠のパンを手に取り、朝からお腹が空きました、と弾けんばかりの笑顔を向けられた彼はやはり満面の笑みでもって温かな紅茶を彼女のカップに注いだ。


午後を半分ほど過ぎたころ、自室のソファにゆったりと腰かけた王妃が文庫の間に指を挟んだまま外を眺めていると、かすかなノックの音とひそめた夫の声とが部屋に響いた。
返事をするとそっと扉が開かれ、ごく狭い隙間から身体を斜めにした王が姿を現す。きっと執務の途中で抜け出してきたに違いない。
妻の柔らかな笑顔に顔を緩め、差し出されたたおやかな手を取って彼も横に座る。が、いいかな、と問いかけて彼女が頷いたのを確認すると、コブラは身を横たえて頭をティティの腿にそっと乗せた。

「ああ、休まる…」
「よろしいんですか?」
「少しくらい息抜きも必要だ、あんまりこもりきりだとおかしくなりそうだよ」

夫の黒髪をゆっくりと撫でると、目を細めて気持ち良さそうな顔をする。まるで今朝出会った仔猫のようで、彼女はくすくすと笑いながら何度も髪に指を通した。
昼食のときに少し顔を会わせたくらいで、あとは朝からずっと執務室に閉じこもりきりだった王の右手の指先はインクで青黒く汚れている。ずいぶんと書き物をしたのだろう、目頭を押さえて何度か瞬きし、そのあとは瞼を閉じて鼻から長いため息を漏らした。

「何か飲み物でもお持ちしましょうか?」
「いや、大丈夫…ここに居てくれればいい」
「では誰かに…」
「言われたらサボっているのがばれてしまう」

悪戯っぽく口角を上げたコブラに苦笑し、本をサイドテーブルに避ける。栞を挟み忘れてしまったけれど、何度も繰り返し読んだ物語だ、また好きなところから読み始めればいい。
しばらくは互いに言葉を交わさず、遠くから聞こえる演習の掛け声と吹き抜ける風の音とに耳を傾けていた。規則正しい夫の息づかいも相俟ってうとうととしはじめたが、そうだ、と急に声を上げた彼に驚いてぱっと目を開く。

「来期の入隊申請がそろそろ始まるんだがね、今度もすごいのが来るみたいだよ」
「この前のジャッカルよりもですか?」
「そう、『隼』だ」

ちらりと妻を見上げると、にこにこと微笑んだ彼女と目が合った。ええ、とだけ言ったティティの様子は彼の想像していたものとは違ったから、なんだ、と少し気落ちしてわざと口をへの字に曲げる。

「ジェトから聞いたんだね?」
「ええ、実は」
「もっと驚いてくれると思ったのに」

彼女の幼馴染みの能力者のことは何度も話に聞いていたし、それが副官の甥御だと言うのも知っていた。
この間の事故で両親を亡くしたのは大変痛ましいことだが、その彼が今度都で仕官するという。数ヵ月後の入隊式に間に合うよう、近々西の地からこちらへ移り住むのだとか。
まるで自分の身内自慢をするかのように、得意げな顔をした護衛隊長がそう言っていた。つい先ほどのことだ。それを彼女が知っているということは、今朝ほんとうの身内から報告を受けていたのだ。
ただ引っ越してくるだけでなく、宮殿で護衛兵になるというのならこれまでに比べて格段に顔を合わす機会が増えるだろう。嫁いできてからこっち、昔馴染みとそうそう会うことなどできなかったのだから、彼女の気分が上向きになるのも頷ける。

「悲しい出来事のあとですから、あんまり浮かれるのもいけないとは思うんですけど…」
「まあ、そうだね…しかし楽しみでもあるな。君に聞いてから、いつかは見てみたいと思っていたんだ」
「でもあの子、上手に飛べるようになったかしら…」
「うん?飛べないのかい?」
「いいえ、飛べるんですけど…私が最後に見たときはまだ少しおぼつかない感じだったんです。護衛兵だなんて…あの子にちゃんと務まるかしら…」

夫の髪を撫でながら窓の外に目をやり、流れる雲をぼんやりと眺める。
まるで青い空に隼の姿を探しているようにも見え、遠く彼方を見つめる妻にコブラは苦笑した。こんなに近くにいても、時々こうして置き去りにされることがあるのだ。
そうか、とやや遅れて相槌を打つと、すぐにまたこちらを見てはくれるけど。

「変身できても簡単に飛べるわけではないんだな」
「飛ぶだなんて誰かに教えてもらえるものではないですからね…あの子、日がな一日中鳥を観察してたんですよ。雀とか、烏とか、ずーっと見つめてて…」

そうしてまた遠くを見る。彼女の空色の瞳はこちらを向いてはいるけれど、こころは時を遡り西の地を向いていた。
見るものすべてを惹きつける美しい笑みを独り占めしたくて、両腕を伸ばして薔薇色の頬を包み込む。

「…君は私を妬かせるのがうまいな」
「あら、どうしたんですか急に」
「君をこんな笑顔にさせることができるんだから、よほどいい男なのだろう?」
「ペルはまだ十三の男の子です」
「もう半分大人だ」

むくれたコブラの真似をして、ティティもぷくりと頬を膨らませる。それを挟んだ両手で柔らかく押さえると、唇を尖らせてぷふうとしぼませる。
誰かが王妃の部屋を訪れるまで、ふたりの密やかな笑い声は途絶えることなく続いていた。穏やかに晴れた午後のことだった。


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