たとえあなたに詰られようとも
王女が東の港町に行くと言って出掛けたのは、まだ朝も早い時間だった。
供もつけずに思い付きで行く彼女の相変わらずの身軽さに王は苦笑したが、あの地へのビビの想いは特別だろう。
何か思うところがあってのことだろうから、特別理由も聞かずに快く送り出した。何よりカルーを伴っているのだから、心配することもないだろう。
しかし、王国最速を誇る彼の足でも数時間はかかる。午後を半分ほど回った頃、うろうろと部屋の中を歩き回った末にコブラは副官のひとりを呼び出し、彼を遣いにやった。
隼の翼はカルガモの足のさらに上を行く。念の為だと漏らした王にペルは一礼し、姿を変えると宮殿から飛び立った。


西からの風に押され、思いのほか速くタマリスクの街にたどり着いたペルは海岸に沿って上空を舞った。
ほどなくして向こうの岩場に座る王女とカルーを見つけ、彼女らの頭上高くを旋回して傍らに降り立つ。
その少し前、日の光を不自然に遮る影に気づいた王女はすでに隼の姿を捉えていたから、副官がひとの形を取り戻した頃にはにこりと微笑んで彼を迎えた。

「こんなところまで来て、どうしたの?」
「国王様がご心配なさっておりました。あまり遅くなっては帰りの道が危うくなりますから」
「大丈夫よねえ、カルー。もうそろそろ帰ろうと思っていたし」

眠たそうな顔で返事をするカルーの背を撫で、遠くかなたの水平線を眺める王女の様子をペルは一歩後ろから見つめた。
あの放送が行われたのも、彼らに別れの言葉を告げたのも、この地でのことだと聞いていた。
日に照らされた横顔は真っ直ぐにかの船の去った方角へと向けられている。無意識に左腕を擦る王女に掛ける言葉が見つからなくて、ペルは黙したまま同じように海に目を向けた。
吹き抜ける風が王女の青い髪と副官の白い服の裾を揺らす。鴎の鳴き声と寄せては返す波の音だけが辺りに響き渡っていた。

彼女が思いを馳せる船は、ここからではどうしたって見つからない。世を騒がせたときだけ、新聞と手配書で取り上げられたときだけしか彼らの消息を知るすべはない。
海の上を自由に行く船と連絡を取ることは難しい。仮にそれができたとしても、彼女の立場はそうすることを許されない。
共に国を救った仲間たちは、世界政府を敵に回した海賊だから。

誰も居ないところで、王女がカルーだけを相手に思い出話をしているのをペルは知っていた。書庫でひとり、ノートの切れ端に出すあてのない手紙を書いているのも知っていた。
その度に見せる少し寂しそうな横顔は、彼の胸を締め付けた。何故なのかとうに理由はわかっていたけれど、ペルはあえてそれを口にはしなかった。
だから今もそんな表情を浮かべる彼女の後ろで、ただじっとしていることしかできない。

数分の沈黙の後、王女は出し抜けに彼の名を呼んだ。
すぐさま目線を合わせた副官がやや間を開けて返事をしたのは、彼女がいつも通りの笑顔を取り戻していたからだった。

「ねえ、ペルは鯨を見たことある?」
「いいえ、潮が噴き上がったのは遠目に何度か見たことがありますが、姿までは」
「私はね、山ほどに大きなのを見たことがあるの」

山ほどの、と驚くペルにビビは屈託のない笑顔を向けた。
山よりもと言った方がいいくらいの巨大な鯨の他にも、島を闊歩する恐竜や誇り高き巨人族の戦士、辺り一面の雪景色やその冬島に咲いた桜の花。
そのひとつひとつを上げては見たことがあるかと副官に尋ねてみるが、この国から出たことのないペルにはいいえと答える他ない。
偉大なる航路上の島々には、この島にいるだけでは想像もつかないほどのものが沢山ある。
それを王女が話して聞かせてくれたのは、これが初めてのことだった。

「話に聞いたことはありますけれど、実際には見たことのないものばかりです」
「私もこの島を出るまでは信じられなかったわ。でも全部ほんとうなのよ」
「ビビ様は素晴らしい経験をなさいましたね」
「うん、口では言い表せないくらいに素晴らしかった」

きらきらと輝く笑顔を向けられ、これほど喜ばしいことはないだろうに、ペルの胸は先程と同じようにぎゅうと締め付けられた。
苦しくてたまらなかった。何故なのかはやはりわかっていた。
それでもそれを押し隠し、彼はうっすらと微笑んで王女を見返す。

「また、海へ出たいですか?」
「そうね、出たくないと言ったら嘘になるわ」

ああ、もういい。
この国を愛していると言ったあのときの彼女の言葉に、偽りのないことは十分わかっているけれど。

「ビビ様」
「なあに?」
「今こう言うのはとても卑怯な事だとは思いますが、どうかお許しください」
「え?」
「あなたのことが好きです。恐らく、あなたが私を愛してくれているのと同じように」

きょとんとしたビビの顔が、一瞬の後に朱に染まる。
今、彼は何て言った?私のことを何て言った?
頭の中がかっと熱くなるような、吸い込んだ酸素が喉の奥でつかえたような。苦しくて仕方ないのに、嬉しくて叫び出したくてどうにかなりそうで。
それを全部ぎゅっとこらえてビビはペルを見つめた。吐息とともに吐き出されたかすれ声は、自分でも何と発したのかわからないくらいだった。
少しだけ、両目が潤むのを感じる。

「…ほんとうに卑怯ね、ペル」
「お怒りはごもっともです。申し訳ございません」
「でも、あなたがそう言わなくても私はこの国に居るわ。わかっているでしょう?」
「はい、承知しております。でも今打ち明けたくなったのです」

勝手を申しました、と言葉を続けたペルは、ちっとも悪びれた様子もなくごく穏やかに微笑みを浮かべていた。
ずるいひと、とビビは言った。しかし怒りなど微塵も感じてはいなかった。

「恐らく、なんて言わないでよ。私はペルが好きなの」
「はい」
「同じと思っていいのね?」
「はい、同じです」

気づいたときには、彼の腕の中に飛び込んでいた。柔らかなビビの身体を、ペルはしっかりと受け止めた。
急に世界が開けたような、言いようもない幸福感があふれ出る。
それは海よりもよほど広く、空よりももっと高らかだった。


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