よもやこれほど
今何と?
相方が面白そうに言った台詞にペルは数秒固まり、妙に渇いた口を無理矢理に開け閉めして捻り出したのがその一言だった。
彼の言葉ははっきり聞こえた。それなのに聞き返したのはその意味が咄嗟には理解できなかったからだ。
こいつは今何か重大なことをさらりと言わなかったか?自分の聞き間違えか?どういうことだ?
表情には出にくい隼が、その実かなり狼狽えているだろうことは明らかだ。目が泳いでいる。
相手の動揺を苦もなく見破ったチャカは口角を上げ、聞こえなかったかと言葉を続けた。

「ある消息筋によると、花嫁修行の一環だとか。つまりはまあ、そういうことだろ」
「花嫁…」

絶望そのものと言った具合の隼をひとり置き去りに、ジャッカルは愉快そうに言葉を続けた。
いや、テラコッタさんにお願いをしたらしいのさ。今までちゃんとしたことがなかったから、やりたいって。コブラ様が仰っていたが、捌くところからやったらしいぞ。それでさっきのムニエルが出来上がったわけだ。うまかったよなあ、さすがビビ様だ。

昼飯に食べた魚料理の出来具合など、ペルには思い出せなかった。いやに冷たいものが背筋を流れ落ちる感覚と、逆に感覚をなくしたような両手の指先の違和感。
鳴るほどに喉を上下させても飲み下す唾がない。いつ、と声に出したつもりがまったく音になっていなかった。
一度浅く息を吐き出し、なるべく平静を装って咳払いをする。

「いつ…そんな話が?」
「ん?ああ、グランドラインを半周してちょうどこの島の裏側に、島自体は小さいが年中雨の降る国があるだろ。聞いたことないか?」
「知らん…」
「これもコブラ様が仰っていた話なんだが…どうもその公国の大使が先日お見えになったとき、ビビ様ともお会いしたらしくてな。ああ、お前はちょうど都に居なかったか、半月くらい前の話だ。それで、その時の王女の立ち居振舞いとか、容姿や受け答えにいたるまですっかりお気に召したらしい、まあ当然だよなあ。急ぎ国に帰って早速報告、大いに興味を示した大公から、ごく内々にではあるが申し出があったとか」
「しかし…王位継承者であるビビ様が嫁がれたらこの国は…」
「嫁ぐんじゃあない、婿に貰うんだ。お相手はかの国の第二公子だ。王配というやつさ」

王配など聞き慣れない言葉を頭の中で繰り返し、おいと呼び掛けるチャカに気づきもしないでペルはふらふらとその場をあとにした。どこに向かおうとしているのかは本人にもわかっていなかった。


じりじりと照りつける真昼の太陽の下にあっても、ペルは汗をかくどころか顔を真っ青にして歩き続けていた。
花嫁、第二公子、婿に貰う。耳にこびりついて離れない相方の声を振り切ろうと何度も頭を振るが、彼の脳はどうしたって先程のやり取りを思い返してしまう。
いつかはこうなるだろうと思っていた。しかしその「いつか」はもっとずっと先の話で、まさかこんなに急に現実味を帯びて眼前に突きつけられるとは思ってもいなかった。
早すぎやしないか。いや、彼女の母は十七の時に嫁いでいったのだ。今の彼女とそう変わらない。早すぎると言うほどでもないのだろう。

王家の婚姻は政の一部だ。
好きだとか嫌いだとか、そんな簡単な話ではない。
雨降る小国と砂漠の文明大国、相反するがゆえに互いの都合ははっきりとわかる。
当事者の意向は二の次で、民のため国のためあるいは、考えたくもないが、一握りの権力者の思惑のために執り行われることも珍しくはない。
だとしても、平民出の兵士になどおよそ見当もつかない世界の話だった。

あのひとはどうしているのだろう。そう言えば今日はまだお顔を見ていない。
ただ、今見たところで何と声をかけたものか、どんな顔をして向かい合えばよいものかわからなかった。

あのひとは昔からその立場をよく理解しわきまえる方だ。己の意見ひとつで物事をこじらせるようなことはなさらないはずだ。
それにまだ見ぬ夫のために料理を覚えようとしているのであれば、きっと受け入れたのであろう。嬉々としてか嫌々かは別にして。
しかし、あの日、ちょうどこの廊下の先でだった。あのひとは確かに仰った。畏れ多くもこの私を…

「あ、見つけた!ペルっ!」
「ビ、ビビ様!」

突然回廊の影から飛び出してきた王女はいつも通りの笑顔で近寄り、驚きのあまり身動きを止めた副官を見上げた。
探したのよ、と屈託なく笑い掛け、しかしどこか無理に作った虚ろな微笑みを返すペルを見てその表情が徐々に曇る。
初めて腕を振るった料理の感想を聞きたかったのに、どうもかなり具合が悪そうに見える副官は不自然に視線を外したまま目を合わせようとしない。

「ねえ、ペル、顔色が悪いけど…もしかして生焼けだったかしら…」
「いいえ、そんな…とても美味しかったです…」
「ならいいけど…ほんとにどうしたの?何かあった?」
「私には何も…」

妙に引っ掛かる言い方だった。私には、と言うことは、誰かに何かあったらしい。
それ以上は口籠り、何も言おうとはしないペルを見上げたまま王女は眉根を寄せたが、無理に聞き出すのはやめた。
この様子は尋常ではない。誰かが怪我をしただとか、亡くなったのではないかと思えるくらいだ。
だから暗い顔のままおめでとうございます、と呟いた副官の言葉に、彼女はより一層怪訝そうな表情を浮かべた。めでたいことなどあったようにはとても見えない。

「ねえ、大丈夫…?」
「ええ…あの…それでは失礼いたします…」

一礼した副官は生きる屍もかくや、という足取りで去っていった。目をぱちくりさせた王女はその後ろ姿を見送ることしかできなかった。

すっかり彼の白い背中が見えなくなったとき、もう一人の副官がすぐそこの角を曲がって顔を出し、王女を見つけると朗らかな笑顔を浮かべて礼をした。
難しい顔のままチャカ、と応えた王女にどうかされましたかと声を掛けると、私はどうもしないけれどと言葉を続ける。

「ペルの様子が変なのよ…」
「あー…」
「何か知っているのね?」
「ええ、いえ…まあ…ちょっと悪戯が過ぎましたかな」
「悪戯?どうしたの?」

ばつの悪そうな表情を浮かべて頬を掻く副官に詰め寄り、ねえ、と王女が彼の服の袖を引っ張る。
そうして聞かされた「悪戯」の全容に、ビビは目を丸めて終いには顔を赤らめた。
駄目じゃない、と言いはしたが、あの男の取り乱した様子をつぶさに聞かされるうちに、先ほどの彼の不自然な振る舞いも思い出されてどうしても嬉しくなってしまう。
もしかして、それって、と口にすることはなくても、端で見ているチャカには十二分にその心情が読み取れた。
これまではっきりと態度で示したことのなかったあの男が、わかりやすすぎるくらいの反応を見せたのだから。その喜びもひとしおだろう。
でもやっぱり駄目よ、と口を尖らせた王女から言われるまで、彼はにこやかに彼女を見守っていた。


日没近くにようやっと目当ての人物を見つけたチャカは、腕を組んだまま練兵場の入り口に寄り掛かり中の様子を窺った。
そこにはただひとり、見えない敵に剣を振るう隼が居るだけで、何かに取りつかれたような形相で稽古に打ち込む様は何者をも寄せ付けない。
一通りの型を終えるまでじっと見守り、剣をしっかりと収めてベンチに立て掛け、両の手がそれから完全に離されたのを確認して声を掛けた。武器持つ相手に、特に今のあいつには、この打ち明け話をする気にはなれない。

「ずいぶんと力んでいるようだが」
「ああ…お前か…」
「なあ…」
「チャカ、おれたちはネフェルタリ家に遣える身だよな」
「ん?ああ、そうだな…」

どこか吹っ切れたような、やけに清々しい顔をしている。
仕掛人は気づかれないようにため息をつき、やれやれ、とこころの中でひとりごちた。悟りの境地というやつか。
流れる汗を拭い、相方の苦笑にも気づかぬのかペルはそうだよな、と一声漏らして微笑んだ。

「わかりきったことだよな。おれたちは王家に遣える護衛兵で、それが変わることはない」
「ああ、まあな」
「何があろうと全うする。入隊のときにも宣誓した。だから今まで通りおれは、この命続く限り守り抜く。この国も王も、その次の治世も…その先もずっと。王女が戴冠し、女王となり、きっと…ご夫君を迎えて次の世代に継いでいくのだろうけれど…おれたちが忠誠を誓うのはネフェルタリ家だ、変わりはしない。だから…」
「お前、どれだけ長生きするつもりなんだ?」

真面目に、ほんとうに糞がつくほど真面目腐った顔でそう言い切る隼を見てジャッカルはたまらず吹き出した。
抑えようにも抑えられず、肩を揺らして彼は笑った。当然それに気を悪くした相方が、何が面白いんだと睨み付ける。
いや失礼、すまない、ほんとうに、でもな、お前、と切れ切れに言葉を繋げるチャカは、なんとか平静さを取り戻すためにでかい左手で口元を押さえた。

「なあ…今日が何の日か、まだ気づかないか?」
「今日が一体何だと…」

そこまで言ってはたと気づいたペルは一瞬固まり、相変わらずひとを食った笑い顔のチャカは一呼吸の間を開けて四月馬鹿、と囁いた。
途端に化粧の上からでもわかるくらいに真っ赤になった隼は、お前は、と言って拳を固める。怒りが半分、恥ずかしさが半分といったところか。

「お前、ひとをからかうのも大概にしろ!」
「いやあ、まさかここまで引っ掛かってくれるとは」
「ふざけるな!王の名まで出して…」
「あのなあ、数ある縁談をのらりくらりとかわし、王妃と出会った途端に求婚したようなお人だぞ。一人娘の意に沿わぬ男を宛がうと思うか?」
「それは…」
「ビビ様の名誉のために言うが、あの方は何にも関わっちゃいないんだ。すべておれの仕業さ」

真に迫っていただろう、と可笑しそうに続けるチャカをはたきたいのを堪えてペルは踵を返した。これ以上相手にしていられない。
おめでとうなど、まったく頓珍漢なことを王女に言ってしまったのに、どうしてくれるつもりだ。間抜けにも程がある。
にやにやとこちらを見るチャカに目もくれず、タオルやら上着やらをいい加減にまとめて練兵場から立ち去る寸前、だけどな、という相方の言葉に結局は足を止めた。

「お前もそろそろ嘘をつくのをやめたらどうだ。観念しろ」
「おれは嘘なんてついていない」
「気持ちを偽るなと言っているんだ。今回のことでよくわかったろう?」

ペルは思い切り顔をしかめ、しかし困惑し、結局は何も応えずその場を後にした。
言われずともわかっている。わかってはいるがこんな形でひとから暴かれるのは腹立たしいことこの上ない。
それから数日、彼は一切チャカと口を利こうとはしなかった。
しかしその頑なな態度を崩させたのは王女だった。
お前の所為でビビ様が、といきなり呼び止められ、相方の様子を静観していたジャッカルは余裕の表情で笑いながらほんとうにおれだけの所為かな、と返したのだった。


「ねえ、ペル?私今日はお洗濯の手伝いをしたのよ。昨日は大浴場のお掃除もしたわ」
「はあ…それはまた、どうして…」
「修行よ、修行」

悪戯っぽい笑みを浮かべてそう言うビビに、ペルはまだしばらく悩まされることになった。チャカはやはり笑っていた。


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 史月様からのリクエスト*


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