午後の一時
彼女がまだ幼かった頃、ペルはよくその柔らかで湿った小さなてのひらを繋いで方々を歩いて回った。
時にはぐいぐいとひっぱられ、時には強く握りかえされ、先行く王女にいつも彼は付き従っていた。それから十数年が経った。
最早こちらから触れることなどおいそれとはできないのに、屈託のない王女は臣下の慎みにもまったく構うことなく親しげに振る舞うものだから、それは時折副官を大層困らせたりもした。想いを告げられたあともそれは変わらなかった。
あの頃のように、ともすればあの頃以上に腕を絡め、無邪気に引き寄せようとする度にペルは慌てて諫めたが、王女は大抵臆面もなく「いけない?」と言うだけだった。
ただ、夜の闇の中、弱々しくうつむいた彼女のほっそりとした指先が彼の手の甲にほんの少し触れたとき、ペルはなんの拘りもなくその手を取って先を歩んだ。


昨夜遅くまで起きていたにも関わらず、ペルはいつものように朝早くから練兵場に顔を出していた。
一通りの形を終え、流れる汗を拭った後は若い隊員の指導をし、それも済むと朝食をとるために食堂へと向かう。
うっかり剃り残した下顎の薄い髭を無意識に擦りながら歩いていくと、後ろから王女のよく通る声が聞こえて彼はさっと右手を下ろした。
大きな目を三日月型に細め、すっきりとした笑顔の王女が小走りに近づいてくる。
その腕は大きな籠を抱えていて、彼の手前にたどり着くより先に彼女はそれを高々と掲げた。

「おはよう、ペル!見て!」
「おはようございます。なんでしょう?」
「オレンジよ、朝市で買ったら沢山おまけしてくれたの」
「またお一人で行かれたのですか…」
「いい香りでしょ?」

いつも通りのあっけらかんとした物言いの王女にいつも通り少し困った顔をした副官は、重たそうな荷物を変わりに受け取ろうとしてしくじった。大丈夫、と言った彼女がすたすたと彼の横を通り過ぎ、省みもせず食堂を目指したからだ。
置き去りにされたペルは大股に王女の後ろへ従い、念のため周りに誰も居ないことを確認すると囁くように彼女の名を呼んだ。

「ビビ様」
「なあに?」
「あれからよく眠れましたか?」
「うん、ぐっすりだったわ。もう大丈夫よ」
「……」
「どうしたの?変な顔して」
「いえ…もうあなたの『大丈夫』は信じないことにしましたので」
「嘘ついてる訳じゃないのに…」

わかっておりますよと優しく言った副官は、隙を狙って王女から籠を奪うと軽い足取りで左の角を曲がった。
不意をつかれた王女は一瞬立ち止まりはしたものの、副官を追いかけて元気よく駆けだした。


午後が半分を過ぎた頃、テラコッタが用意してくれたトレイを手にした王女はまず父のもとへ向かい、よく冷やされたオレンジのゼリーを卓に並べて彼を喜ばせた。
公務の手を休めてイガラムと談笑するのを少し眺め、皆にお裾分けしてくると言って執務室を後にする。
次に彼女が向かったのはチャカのところで、難しい表情で机に向かう彼もまた思いがけない来訪者からの美味しい差し入れに顔を綻ばせた。
もう一人の副官の所在を尋ねると恐らく彼も執務室に居るだろうことがわかり、愛想のいい笑顔を浮かべて軽くなったトレイを下げ、そう遠くはないペルの部屋へと足を延ばした。

扉をノックし、呼び掛けると大体席を立って出迎えてくれるペルが珍しく沈黙していたものだから、王女はゆっくりと取っ手を回して中を覗いた。
机について物書きをしているようだが顔すら上げない副官を不審に思い、名前をもう一度呼び掛けるが気づかない彼は微動だにしない。
そろりと近づいて顔を覗き込むと、珍しいことにうたた寝をしていて、意外に思った王女はそのまままじまじと彼を見つめた。
穏やかな寝息と、伏せられた睫がかすかに動くのを観察し、こんなに昼日中から無防備な姿をさらすのは中々ありえないことだと苦笑する。
彼が執務室で昼寝をしている所など、今まで一度も見たことがない。王女に限らず誰一人としてそんな現場に出くわしたことはないし、想像すらしないだろう。
きっと、遅くまで飛んでいたと話していたし、その上自分に付き合ってろくに眠れなかったのに違いない。
申し訳ない気持ちと、今まで見たことがなかった彼の寝顔に愛しさがこみ上げ、王女は椅子に座る副官の隣に膝立ちになってしばらくその顔を見上げていた。

服の裾をいじったり、片方だけ垂れ下がった腕をつついてみたり、それでも目を覚まさない彼に終いには可笑しくなってくすくすと王女は笑った。
この様子なら何をしても気づかれなさそうだ。
にんまりと笑ったままの彼女は静かに手を伸ばし、少しだけ開かれた副官の唇にそっと指を置いた。目元と同じ黒いラインは近くで見ると紫がかっていて、形のよい薄い唇を覆い隠している。
これに己の唇を重ねたことを思い出し、ビビはひとり頬を赤らめた。
ひやりと冷たいかと思っていたそれは、確かに温かさを持っていた。

そのまま指先を滑らすと彼の眉間に皺が寄り、王女は悪戯が見つかったときの子どものように素早く手を引っ込めた。
ややあって開かれた両目がぼんやりと視線を漂わせ、間近に人の気配を感じたそれが瞬時にぱっちりと見開かれる。
同時に椅子ごとひっくり返りそうになった副官に驚き、彼女は慌てて彼の腕を掴んだ。

「びっ…くりした…」
「驚いたのはこちらです!何をなさっているんですか!」
「ペルがあんまり気持ちよさそうに眠っていたから見ていたの」
「眠ってなど…」
「あんなにスースー寝息をたてていたのに?」

どうやらほんの数分前までは書類に目を通していたらしい副官は、本人も気づかぬうちにずいぶん深い眠りに落ちていたらしい。
とにかく主筋が床に跪き、臣下たる自分が座している事態に彼はうろたえ、席を立つとにこにこと微笑む王女をも立たせた。

「失礼をしました…申し訳ございません」
「謝らなくってもいいのに。私が勝手に寝込みを襲っていただけよ」
「…それは…軽々しくそんな…」
「冗談よ、それより私こそごめんね。つまらないことで遅くまで付き合わせちゃって、寝不足にさせちゃったわね」
「いいえ、ビビ様の所為ではありません。近頃立て込んでおりましたので…居眠りなど…お恥ずかしい限りです」

人並み以上に仕事をこなす副官がほんの少し休んでいた所で、誰も咎めはしないのに。
きっと、ビビでなくても彼のこの姿を見れば皆そう言うだろうが、彼だけはそうは思えないらしい。
きまりが悪そうな顔をした副官は頭を振り、机の上に置かれたガラスの器を見て首を傾げた。
今朝の、と問いかけた途中で王女が遮り、食べてねと言ってトレイを手にする。
疲れている上に睡眠不足の副官をこれ以上邪魔するのはあまりよくない。

「そのままでも美味しかったけど、沢山あったからゼリーにしてもらったの。私も少しお手伝いしたのよ」
「ありがとうございます、いただきます」
「じゃあね、ゆっくり休んで」
「あの…大丈夫です、それにまだ仕事中ですし…」
「ペルの『大丈夫』は信じてあげないわ」

したり顔の王女が部屋を出て行き、ため息一つ漏らした副官は再び腰掛けるとスプーンを手にした。


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