ゆるやかに流れ出す
この小さな存在は、とコブラは考える。
この世の憂いや苦しみからすべて隔てられた平穏なる夢の世界で、はたして彼女と出会えているのだろうか、と。
君は何処にゆこうとするのかと馬鹿な問い掛けをしたとき、長いこと閉じられたままだった両目をすっと開き、夢の中へと囁いた。
わたくしならずっとそこに、そう言って美しく微笑んだ。
それは彼女の最期の言葉ではなかったけれど、どういうわけかその情景だけははっきりと頭に刻まれている。

あのとき以来、彼の目の前にはうっすらと靄がかかり、何もかもが色褪せて見えていた。
食べ物の味も誰かの話し声も薄い膜を通してしか感じることができなかった。
ただどうしてか鼻だけはよく利いて、その持ち主が意図しようとしまいと否応なく彼の内側に入り込む。
例えば彼女が愛した花だとか、お気に入りのありふれた香水だとか、好きだと言った焼きたてのクロワッサンだとか。
この毛布だってそうだ。彼女の柔らかな香りが染み付いていて離れない。

近ごろようやく母の不在に何かを感じ取り、彼女を何度も呼ぶ娘の姿は不憫でならなかった。
抱いてあやしても火のついたように泣きわめき、ひたすら母を探し求める小さなビビ。
そういったときは必ず彼女の部屋で泣き止むまで抱き締めた。彼女の愛用した毛布にくるんでやるとその内静かな寝息を立てる。
そうしてため息をつき、途端に罪悪感や不甲斐なさや絶望に押し潰されそうになる。
何を煩わしいことがあるというのだ、この子には私しか居ないのだ。私にもこの子しか居ないのだ。

いつの日か目の前の霧が晴れたとき、代わりに思い出もこの香りも彼女の存在も薄れていってしまうのではないかと、心底それを恐ろしく思う。
だから彼は泣くことをやめた。
泣いて泣いて、泣き疲れて、そうするとこころにぽっかりと穴が開いたようになる。
涙とともに大事な何かが流れ出てしまった気がして、そんなことになってたまるかとすべてを身の内に閉じ込めた。

彼女を忘れ去ることなどできはしまい。
そう言いきれるのは己しかおらぬのに、何年もの時を経て移ろうものなどいくらでもあるのではと頭の片隅で考える。
彼女と過ごした年数と同じだけ時が経ち、その倍の年月が流れる内に彼女がかすれて消えてゆく。
とてもじゃないが耐えられない。

いっそこのまま、時を止めてしまえたらと埒もないことを考える。
いや、もう少し手前で、あの頃に戻って額縁か何かの中に押し込み一緒に閉じ込めてくれてもいい。
未来永劫口許に笑みを浮かべたまま、この王宮のどこかにでも掛かっていられればとすら考える。父祖たちのしかめ面に並んでことさら幸せで満ち足りた顔で、同じように穏やかに微笑む彼女とともに。

ママ、と小さな声が聞こえて顔を上げる。
出会えたのか、それともまだ求め続けているのか。表情からは読み取れない。
せめて夢の中でくらい、母親に触れることができればと思う。ほんとうなら、この先ももっともっと彼女に抱き締めてもらえるはずだったのだから。

死という概念はこの子にはまだ難しすぎる。
自分にだってそうなのだから、二つかそこらのビビにはどだい無理な話だ。
死とは一体何なのだろう。居なくなること、まみえることはもはや叶わぬこと、永遠に別たれること。
どれもまだ理解できない。理解したくもない。

気づけばまだそこかしこに彼女が存在する。
幾筋かの髪がからまったブラシや風にひらめくショールや読み止しの本や、今にもそれらを手に取るべく扉の向こうから現れでもしそうな甘く残酷な錯覚。
死者に構いつけるな、浮かばれるものも浮かばれぬ。昔誰かがそう言っていたことをぼんやりと思い出す。
生き残されたものどもの身勝手な想いに囚われて、いつまでもさ迷わなければならないからと。
それのどこがいけないと言うのだ。彼女は私の妻で、この子の母親なのだから。
留まってほしいと思うのは当然のことだろうに。

娘の小さな掌が何かを捕まえようとするかのように緩く丸められる。もしかすると、求めたものが見つからないのかもしれない。
無意識に己の右手を動かし、人差し指の一本を差し入れる。きゅうと握る暖かな柔らかさにこころが締め付けられ、こらえていたはずのものが溢れ出そうになって唇を噛みしめた。
まだ駄目だ。まだここに居てくれ。だって君はああ言ったのに、まだ私は君に出会えていない。
つまりまだここに居るのだろう?夢の中になど行っちゃいないんだ。ここに、私の内側に。この子の内側に。

だのにつるりと頬を伝う涙をどうすることもできなかった。
駄目だ駄目だと繰り返し、息を止め、目を見開き、逃すまい離すまいと必死になっても。


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