ひとり、ふたり
妻の具合が悪いと聞いた時、コブラは吸いかけの煙草とやりかけの公務をうっちゃり、すぐさま彼女のもとへと駆けつけた。
顔色のすぐれないティティがベッドに横たわっているのを見つけ、世話を焼く女官を押し退けて妻の様子を窺うとうっすらとその美しい目を開く。
ご心配なさらないで、ただの悪阻ですと小さな声で囁いた彼女を、目に涙を溜めた王はぎゅうと強く抱き締めた。


「民への発表はもう少し王妃様が落ち着いてからがよろしいかと」
「ああ、そうだな。要らぬストレスを与えてしまってはよくない」
「それに、以前のような心配もございますし…」

言葉を濁すイガラムに切なげな目配せをし、王は新聞を畳んでコーヒーを手にした。
昨日の喜ばしい報告は、今はまだごく一部の者にしか知らされていない。
妻の居ない食卓は寂しいものだが、仕方のないことだ。
寝室を今まで以上に居心地よく整え、瑞々しい果物やら何やらを用意し、立ち上がろうとするだけで無理はよくないと寝かせる夫に大袈裟ね、と彼女は笑ったが、あの時のような思いは絶対にさせたくない。
些か行儀悪く卓に片肘を付いて物思いにふけり、隊長が今日の予定を読み上げるのを聞くでもなく聞いていたとき、入り口の扉が静かに開いたことに気づいた王は仰天して立ち上がった。

「ティティ!休んでいなさいとあれほど…」
「病気じゃないんですから、大丈夫です」
「しかしだな…」
「それに、あなたの居ない朝食は味気ないもの。でもちょっと遅刻でしたね」

彼のごく近くに椅子を引き寄せ、王妃は悪戯っぽく笑った。
直接部屋に届けるようにと手配していた小ぶりのバスケットを手にしていて、そこから焼きたてのクロワッサンを取り出した彼女は半分にちぎっていかが?と夫に差し出す。
戸惑い顔で受け取った彼に今日もいい天気ですね、と朗らかに微笑みながらパンを頬張る様子は普段通りで、ずいぶんと顔色もよくなった。
何を食べたかもあまり覚えていなかった王は口元を緩ませ、思いのほか食欲旺盛な王妃のために温かなスープを用意させた。


その日の夜、ベッドの上に寝そべる王妃の傍らで書を読みふけっていた王は、隣からの柔らかな視線に気づいて顔を上げた。
眠たそうな彼女は手を伸ばして髪に触れた夫の指先に自分のそれをそっと絡め、不思議そうに彼の瞳を見つめる。

「今日は一服なさらないの?」
「ん…?ああ、うん、そうだな…」
「珍しいですね、夜の読書のときは決まって吸われるのに」

いつもなら少し苦くてどこか甘いコブラの人差し指は、今は古い紙とインクの香りを纏わせていた。

初めて彼と出会ったときにわずかに感じたバニラのような香りが、王子の愛飲する煙草のそれだと知ったのは彼女がここに嫁いでしばらく経ってからだった。
隠れるようにバルコニーで吸っていたのを見つけ、きまりの悪そうな顔で灰皿に吸いかけを押し付けた彼に、まるでそこらにたむろする悪童のようだとたまらず噴き出してしまった。
君は苦手かと思って、と握りしめた小さな箱を後ろ手に隠す様がことさら子どもじみていて、くすくす笑いを止めるのに苦労したことをよく覚えている。
得意ではないですけれど、と言ったティティは額に掛かった前髪を避ける仕草のついでに目尻の涙を拭い、でも嫌いではないですと言葉の先を続けた。

それ以来、食事の後や執務の合間、一日の終わりに嗜む姿を見かけたが、居合わせる妻に失礼するよと必ず一声掛けるのが彼の習慣になっていた。
誰にはばかる必要もないはずなのに、といつも彼女は苦笑したが、それが彼というひとなのだと考え直してどうぞ、と返すのが常だった。
彼女自身が試してみようと思うことはなかったし、確かにあの煙たさと独特の匂いは得意ではなかったが、元々父親が喫煙者だった所為か世の嫌煙家たちのように眉根をひそめて悪し様に言うようなことはなかった。
何より煙草をくわえたときに見せる、穏やかに緩んだ夫の横顔が好きだった。

「いや、なに…止めようかな、と…」
「あれだけお好きなのに?」
「程々にしていたつもりだったが、そんなに吸っていたかね…?」
「議事長さんほどではないですけど」
「あんなに酷いチェーンスモーカーではないぞ私は…」

弱りきった表情で本を閉じ、サイドテーブルの灯りを消すと彼も枕に頭をうずめた。
真っ暗闇の中ではっきりとはわからないが、隣で身じろぎした妻はどうも笑っているらしい。
はだけた上掛けを彼女の肩の辺りまで引き上げてやるとコブラは鼻でため息をつき、ややあって閉じていた口を開いた。

「身体に悪いことはわかりきっているしな…君はもうひとりの身体ではないのだし」
「そうですけど、私の居ないところでまで我慢なさらなくても」
「君だけではない、私ももうひとりの身ではないのだよ。本来なら二人になったときに止めるべきだった…今度は三人だから…」

彼がひとりの身でないことは、彼が生まれたときから変わらないことなのに。
そう思っても、ティティはやはり何も言わなかった。王ではなく、ひとりの夫として父親として、普段からは想像もつかない不器用な優しさを垣間見せる彼が愛しくて仕方ない。
自分でもそれがわかっているのか、照れを隠すようにもう動くのだろうか、と早口に問いかけながらコブラは平らなティティの腹に耳を寄せた。
まだまだですよ、と可笑しそうに返した彼女は夫の黒い髪に指を通し、確かな暖かさに包まれながら瞼を閉じた。


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