ちいさくて大きな世界(ボルサリーノ、センゴク)
そうと信じて疑わなかったちっぽけな世界はあっさりと崩れて失われるし、結局のところそれの繰り返しで今というときが積み重なる。複雑で、簡単にはいかない大きな大きな世界というもの。
しかし、己の力の及ばぬ何か、金であり知識であり抜け目のなさや腕力の強さが、足りなければ手に入れればいいのだというのは常にシンプルでわかりやすかった。
物心ついてからこの方、突然無関係なところから掠め取られ、搾取されていく理不尽さにはどうにもならないほど腹が立ったし、ひとから馬鹿にされたりなめられたりするのには我慢ならなかった。そうなったときの彼は日頃の穏やかな物腰、あるいはひとからのろまと揶揄されているような雰囲気とは真逆の態度でもって相手を圧倒した。
そして彼は笑った。かんたんだったからだ。およそ二十年に渡る人並み以上の、いや血反吐を吐くほどの彼の苦労や努力は、本人にしたらとんでもなくふつうでごく当たり前のことになっていた。
誰にも奪われぬようにあらゆる力を身につけ、手に入れられるだけ手に入れて、あとはひたすら生き急いだ。年だけは経ることでしか得られなかったのだ。

「オーオー、汚ねえツラしやがってェ」
「…や…やめ…」
「なぁんだ、まだ喋られるだけの元気があるのかい」

ご、と鈍い音が響き始めて数分。
それは押し付けたコンクリ壁に相手の後頭部が当たる音であったり、骨のへこむ音であったり、肺から血混りの息を吐き出す音であった。
いずれにせよひと気のない路地裏ではよく響く。悲鳴を上げたって助けなんて来やしない。
そもそもちょっとした賞金首の小悪党など、誰も助けようとは思わないだろう。すでに彼らの足元にはいくつもの身体が、おそらくまだ息はあるのだろうが、ころがっているのだから、近寄りたくもないというのが本当のところだ。

これといって理由があるわけでもなく、強い意思も目的も特になかったが、生きていく以上食わなくてはならないし食っていくためには金が要る。頭ではどう考えていようと腹の虫は鳴るものだから仕方ない。
小金を稼ぐためには賞金首を引き渡すのが一番手っ取り早かったし、そうすることができるだけの力も十分身についていた。彼が身を置いていた環境や時代がそうするに適していたのもある。
とにかく、まっとうな職につく選択肢もあったのだろうに、彼はそうはしなかった。できなかったのかもしれない。

かつてまだほんの子どものころ、彼はとにかく勉強をした。借りた本を読みあさり知識を詰め込み、偉い学者先生にでもなればとちいさな胸に夢を抱いた。学のないことでろくな定職につけず、ずる賢い人間に騙され、家族にも貧困を強いた挙句何処かに姿をくらました父親のようにはなりたくなかったのだ。
今では考えられないが、当時、ひとよりもかなり覚えの悪かった彼は、何度も何度も反復することで学ぶと言うより脳味噌や身体に直接染み込ませていった。出来損ないの血を呪うだけではどうにもならないことはわかっていたから、そうするほかなかったのだ。
一枚の紙に鉛筆で書き取り、隅までいっぱいに文字で埋め尽くして裏返し、もう一度同じことをしてやっと覚えられるくらいだった。それでも駄目なときは消しゴムで全部消してもう一度はじめからやり直した。硬くて小さな消しゴムではうまく消えなかったが、紙はその一枚きりだった。真っ黒な紙切れに何度も何度も書き綴ったものだ。
のろまのボルサリーノとからかわれたのはこの頃の話だ。何をやらせてもぐずなボルサリーノ。同じことを何度も繰り返さなければ覚えられない彼を、のんびりと待ってくれるほど世界は甘くも優しくもなかった。
だったらはやくなればいい。

「オメェ、何処の出だい?こんな北の海くんだりのド田舎で何してんだぁ?」
「…ぐ……」
「それじゃあ、こう言うのは見たことねえだろうなあ。ここいらじゃ珍しいだろォ?」

細長い人差し指を伸ばし、相手の眉間に狙いを定める。首を押さえつけることでぐらぐらと揺れる頭を固定し、指先に光を灯らせた。
驚きも恐怖におののくこともない、意識を失った犯罪者につまんねえなあと笑いかけて目を細める。

本人にそのつもりはなくても、賞金稼ぎの真似事をして何度も詰所に顔を出していれば役人や海兵の間でも噂になる。
その昔、加減の仕方がわからなかったと言って海賊船を一度に何隻も沈めたことがある、らしい。それもたったの一人で。
これは今でもその地方でひとからひとへと語り継がれているもので、聞いた誰をも震え上がらせた。本当かどうかはわからないが、この噂話は彼が悪魔の実を口にして以後囁かれ続けている。

「それで片付けたら人相がわからなくはならんか」
「その辺はちゃあんと気にしてますんで、心配ご無用でさあ」
「お前の技は対象を爆破させると聞いているが」
「確かにそういうのもできますけどねえ、おれのは別に、単なる爆弾とは違いますんで」

壁に押し付けた男から目をそらさず、つまりは背後からかけられた声の主を振り返ることなく、ボルサリーノはいつもの調子で応えた。
どう考えても目の前より後ろの男の方が危険そうではあったが、何かを仕掛ける気であればとっくにそうしているだろう。

「あー…よろしければ、その、終わらせちまいたいんですがねえ…」
「気にせず続けてくれ」
「こうも穴が開くほど見つめられちゃあやりにくいでしょう」

そうか、と言ったきり立ち去るそぶりを見せない男に、ボルサリーノは腕の力を緩めてため息をついた。しかし弧を描く口元はそのままに、胸ぐらを掴んでいた手をゆっくりと下ろしてまずは視線だけを後ろに向ける。
ずるずると倒れ伏す男を気にすることなく、意識は完全に背後の男へと集中させた。仕立てのよいスーツと、特徴的な髪型、引き結んだ唇。
彼が海兵であろうことはその真っ白いコートで一目瞭然だ。ただ、この辺りの駐屯地で見かけるようなのとは違う。纏う空気、とでも言うのだろうか、それが尋常ではないことを肌でも感じ取ることができる。総毛立つ感覚にむしろ高揚し、なぜだか湧き上がる笑いを抑えることができない。
不気味な、それでいてどこか無害な印象を与えるかすれ声が何か言った。それがその男の名だとわかったのは二度目に耳にしたときだ。今から数時間後、お名前は、と尋ねたボルサリーノに、聞こえていなかったのか、とセンゴクは無頓着に答えたのだ。

「ボルサリーノ、と言ったか。お前、年はいくつだ」
「さあ、たぶん二十八か九でしょう。生まれた年がいつなのか覚えがねえんで」
「ここには二十五と書いてあるが、書類の不備かお前の記憶違いか…それにしても、もう少し老けて見える」
「そりゃあ嬉しいですねえ」

にこにこと緩んだ顔を歪め、汚れた両手をポケットに突っ込みながら彼は海兵をしげしげと眺めた。
将校さんがなんの用で?と問えば、島で面白い話を聞いた、と男が答える。嫌悪も恐怖もない、少しばかりの興味と呆れ、しかしそれ以外はほとんど無表情と言ってもいい。

「ずいぶんと派手にやるんだな」
「生死問わず、と決めなさっているのはそちらですからねぇ。引き渡しさえすればその過程はどうだっていいんでしょう?」
「時間と体力の無駄だろう、懸賞金を手に入れるためだけならここまでやる必要はなさそうなもんだが…それに、死んでしまえばお前の取り分も減るじゃないか」
「まあ、今日はちょっとばかし頭にきてたもんで」

三割程度減ったところでどうってことない。それくらいに腹立たしかったのにはちゃんとした理由がある。
「おれの飯を台無しにした」。表の屋台街で昼飯にありついていたところ、酔っ払ったゴロツキが倒れ込んできて食べかけの丼がひっくり返った。
箸だけを手にして振り返ったボルサリーノに絡んできた男が何を言っているのかわからなかったが、周りの取り巻きが言うには彼は三百の賞金首で、ここらの海でその名を知らぬものは居ない、という話だった。ボルサリーノは知らなかったが、それだけわかれば十分だ。
奪われた分は取り返さなければ。

「水を差したようで悪かったな」
「…もう終わっていたようなもんですから、ぼちぼち帰ろうかと思っていたとこです。あー…数が多いんでェ、あとはそちらで片付けてくれると有難いんですがねえ」
「あとでひとを呼ぼう。お前は私に着いてきなさい」
「へえっ?それじゃあ、この間の…」

そこまで言って口をつぐんだボルサリーノを、男はやはりいくらか呆れた表情で見据えてため息をついた。
お前の過去には何もない、と感情のこもらない平坦な声が応え、そんなはずは、と言いかけたボルサリーノを目線だけで黙らせる。

「記録上何もないのは事実だ。うまく立ち回ったな」
「は、ァ…でもあそこの詰所の大佐さんが、今度カタギが混じっていたらと…」
「手元にある資料はほとんど白紙だ、と言っている。お前の生まれと、両親のことが書いてあるくらいだ。どちらも亡くしたそうだな」
「…お袋は間違いねえです。親父は知りませんがね」

ポケットに入れたままの両の拳をぎりぎりと握りしめる。
相手がこちらを揺さぶろうとしているのは明らかだ。それに乗るほど餓鬼でもねえと口の中で呟き、細めていた目を見開いて男を見つめ返した。何も読み取れない、凪いだ黒い二つの瞳。

「まあ、お前の過去など誰も気にすまいよ。そういうのが一切関係ないところだ、軍ってのは」
「そうは思えねえが…つまり、海兵になれってことですかい」
「最初からそう言っているつもりだったが」
「おれみたいなのが兵士にねえ…ろくにつとまりませんよ、それこそ時間の無駄ってもんで」
「…そうは思わんからこうしてわざわざ出向いたんだ。軍はいつでも人員不足でね」

それに、これほどの能力の持ち主を、首輪も付けずに野放しにしておく方が余程脅威だ。
身元のはっきりしないならず者を何故、と問うたセンゴクに、資料とともにこう返したのは彼の上官だ。その通りだろう。実際に目の当たりにしてみて強くそう思う。

「あまり時間もない。来るのか、来ないのか」
「これだけおれよりおれ自身のことを知っていなさるんだ、答えはもうおわかりでしょう?」

そう言って、ボルサリーノは男を正面から見つめたまま歩を進めた。ぴかりと全身を光らせ、横をすり抜けようとした。こういう厄介そうなのは一瞬で撒いてしまう方がいい。
けれど光は急速に失われた。訝しんで振り返ると、男のごつい手が己の右腕を掴んでいた。もう一度、と試しに力を込めてみても、何の変化も起こらない。

「こりゃあ…いったい…」
「なんだ、ロギアを捉えるくらいわけないだろ。ここらじゃ珍しいのか?」
「…そういう御仁が、軍にはごろごろ居るんで…?」
「おれより凄いのがお前の教官になる予定だ」

へえ、とボルサリーノは笑った。
まだまだ知らないことが、手に入れられるものが沢山ある。


二月後。
海軍本部の練兵場に響く怒号と悲鳴と、ひとを馬鹿にしきった笑い声とまた怒号とは最近ではお決まりになっていた。
ご苦労なことだ、と苦笑した将校を見つけた訓練兵が、教官の一瞬の隙をついてぱっと彼の元に駆け寄って行く。

「センゴクさぁん、まーた先生がおれをいじめるんでぇ」
「ボルサリーノ!お前は早く戻れっ!」

追い付いて首根っこを掴んだゼファーが渾身の力でボルサリーノを放り投げても、空中で光って綺麗に着地した問題児は平気な顔で手を振った。
糞生意気な、と教官は荒い息でまくし立て、薄いが確実に面白がっている同期の表情を睨みつける。

「今度はどうしたんだ」
「竹刀での稽古中に妙な技を出しやがった…まったく、お前んとこの犬っころはお前んとこでちゃんと躾けてから持ってこいよ…」
「だからそれを頼んだんだろうが。おれは躾には向いとらん」
「おれだって犬の訓練士になった覚えはねえ…」

ただでさえもう一匹狂犬が居るんだ、と言いかけた教官は次の瞬間には振り返って走り出していた。
殺気をむき出しに真剣を抜いた訓練兵の赤い背に向かい、やめろ、と大声を張り上げる。
たまには飲みにでも連れ出さないと、そろそろあいつも保たんかもしらん。そうひとりごちてセンゴクは苦笑し、踵を返した。

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