ambivalence(ボガード)
こうして衝動を理性で抑え込むことができるのは、忍耐と諦めと長年染み付いた習慣からくるもので、それにはいくばくかの誇りと多大なる苛立ちを伴うことがほとんどだ。
臓腑を焼き尽くしてしまいそうなほどに熱い錯覚は、時にじりじりと、時にごうごうと臍の裏側で暴れまわり、しかしおかしなことに脳髄はいつだって氷のように冷たくて、少しの間を開ければなんとか収まりがつくのだからあとで余計に腹が立つ。
だから、こうして目の前で無防備な姿をさらす上官の、日に焼けた逞しい首に浮かぶ太い動脈をぼんやりと眺め、ほとんど無意識に左の親指で鍔を押し上げたのはボガードからのせめてもの抗議だった。それも一瞬で収められるほどのささやかな反抗。鞘と鍔が触れ合うかちりという密やかな音が、常からは想像もつかないほどに静まりかえった船室内に響き渡る。彼は気づくだろうか。いいや、気づきはしなかった。

誰も彼もがヒーローと崇めるかの中将は、今はただ眠る爺さんだ。ただではない、馬鹿げた帽子を脱いだ、だらしなくいびきをかいた、胸に大きな傷を負った男。
頼むからよしてくれと、何度も願い出ているのに一向に聞きやしない。本気で警戒を解くのはやめてください、急に眠りこけるのはやめてください。何か重篤な病の兆しかと気を揉めば、餓鬼のころからこうなんだと呵呵と笑った。その顔を思い出してまた腹が立つ。ああどうしてあなたは。そう言いかけて飲み込んだ回数はきっと星の数ほどあるだろう。いちいち数えていたらきりがない。そんな細かいことを気にしていたら、このひとの右腕は勤まらない。

ただ彼の身を案じているばかりでもなかった。
海軍本部の中将が、それも限りなく頂点に近い生ける伝説が、たかだか支部の椅子に踏ん反り返っていた大佐ごときに切りつけられるという事態の意味を、彼は正しく理解しているのだろうか。していたら話は早いのだが、わかっていたとしても意に介さないのだからたちが悪い。
せめて海に出ている間は、部下たちの前ではやめてもらいたい。そう言ったって聞き入れやしないのはわかっているから、今ではもう口にすることもない。それでも、彼の両肩に掛かっているのはそこに放り出されているコートだけではないのだと、ほんの少しでもいいからそれを理解している素振りを見せてもらいたいものだ。

座っていれば邪魔になるだけの刀を定位置に収め、デスクの前で薄っぺらい二枚の経歴書を交互に眺める。経歴というほどのものもない。「雑用」としか書かれていないのだ。ここに特記するほどでもない「些事」、例えばどこにも登録のない船の乗組員だったとか、つい先ほど取り逃がした犯罪者の縁者であるだとか、そういったことにはまるで関心を示さない我が上官は、よく言えばおおらか、悪く言えば、つまるところかなりいい加減な方であろう。まるで犬猫でも拾うようにひとを艦に乗せてしまう。
こうして彼が気まぐれに目をかけた兵も数知れない。そのうちの一人として数えられるのは、正直今では御免蒙りたいところだが、しかしその事実は曲げられなかった。でなければ今の自分は存在し得ないのだろうと、月並みだがそんな言葉が頭を過る。新しい兵が迎えられるたびそう思うのだ。そうして、気づけば彼らの経歴書も己のもののように分厚く重たくなるのだろう。

彼の勝手の後始末はもはや手慣れたものだ。こうして書類を揃え、必要事項を記入し、突然の人事に見合う理由をこしらえ、あとは署名と捺印を待つばかりの状態で未処理のファイルに挟み込む。ひしゃげた大砲一門と、輪切りの銃二丁分の補充要請書には適当な事由をでっちあげ、署名はこちらで済ませた。輪切りについては己にも責任があるだろう。が、こちらは真っ当な言い訳を用意することができる。少なくとも誰かのように、無闇にひしゃげさせたりはしていない。

「終わったか?」
「おや、起きていらしたんですか」
「物騒な殺気が引っ込むまでの狸寝入りじゃ」
「それにしては心地よさそうないびきでしたこと」

大あくびをする猫背の爺さんのために立ち上がり、茶を淹れ、仕舞いかけていたファイルを取り出しテーブルの上に広げる。まるで緊張感のない表情で腹が減ったとひとりごちる中将に、用意させてある旨を告げて電伝虫の受話器を取り上げた。

「さ、早く取り掛かってください。サインが七箇所、捺印は最後の一枚ずつだけです。そちらの資料は必ずお目通しを。終わればそこに夕食を並べられます」
「食いながらでもできるぞい」
「馬鹿なことは仰らないでください。先日も油染みがあると言って元帥からお叱りを受けたこと、もうお忘れですか」
「そうじゃったかなあ」

とぼけた顔で鼻をほじる癖が本当にむかつく。右手で鍔を引き下げ、この帽子は何もそのために被っているのではないと思いながら視界の半分を覆い隠した。

×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -