clear the air(ボルサリーノ、戦桃丸)
ごきり、と派手な音を立てて首を捻る。
その首をかさついた掌で何度かさすり、いつもの調子で参ったねェと微笑む大将は、言葉とは裏腹にちっとも参っているようには見えなかった。だから周りの誰もがそれに気づかず、彼の言葉はただの独り言になってしまう。

大勢居る研究員たちからの「お疲れ様です」に手を上げて応え、もう一方で上着を受け取り部屋を出る。病院然とした研究室の、無機質な白や銀色の世界はどうしても好きにはなれないけれど、上からの厳命には従わぬわけにもいくまい。袖を捲った右腕に貼り付けられた白いガーゼを指先で摘み、出口近くの屑籠にぽいと放り投げたあとはただため息をつくだけだった。

「ずいぶんくたびれた顔だな」
「ンン〜、君も居たのかい」

扉を開けて直ぐのところでうんと伸びをしていると、先に気づいた戦桃丸が特に歩調を速めることもせず黄猿に近づき彼を見上げた。彼は、何故だか林檎のパックジュースのストローを咥えたままで、しかしいつも通りの無頓着な表情で大将の色眼鏡の奥を覗き込んだ。

「どうしたんだいそれはァ」
「喉渇いたって言ったらくれたんだ。物欲しそうな顔してもあげねェぞ」
「ひどいねェ」

兵器の音声認識のためにまた何十パターンも録音しなくてはならない、と愚痴っていたのはいつだったか。おそらく、今しがたそれを終えてきたのだろう。科学部隊の優秀な部隊長は、数ヶ月後の実地試験での総指揮を任されている。誰が決めたのか兵器は彼の声にしか反応しない仕様になっていて、そのための下準備にもう何日も費やされているはずだ。表からは読み取れないが、彼だって相当にくたびれているのだろうけれど。

すたすたと歩き始めた戦桃丸の横を行き、互いにそれ以上視線を交わらせず長い廊下の向こうを目指す。もとが野っ原の育ちだ、いくら広くても息が詰まるように窮屈な研究室より、開けた空のもとや海の上に居る方がよほど性に合っている。それを知ってか知らずか、戦桃丸はちらりと横目で大将を見やり、艦は整備中、と呟いてまた前を向いた。

「クザンに自転車借りてこようかねえ」
「あのひとでなきゃ海には出られねェだろ、てか乗れるのかよ」
「多分ね〜。君も朝から詰めっぱなしだったんだろォ、一緒にどうだ〜い?」
「も?オジキは午後からだろ?」
「わっしも午前一杯ずうっと地下の研究室に居たんだけどねェ…昼飯もなしにこっち来て、最後は血まで抜かれてたんだよォ。なーんに使うか知らねえけども」

赤く小さな注射針の跡を掻き、誘いを軽く無視されたことは気にせず苦笑する。
へえ、としか返さなかった相手にそれ以上を期待することもせず、今度は頭を掻いてただひたすらに外の空気を求めた。

繰り返し繰り返し、何度も能力を発動させることを求められた。ぴかり、ぴかりと指先を光らせ、何かを測定し記録する研究員たちが顔を上げるまでは特にすることもなく、今度は蹴りをと要求され、それに応えること数時間。己の能力を模した兵器を作るより、この能力を受け止めていたあの装置の方が恐ろしい研究成果だとは思ったけれど、大将は何も言わず何も聞かず、言われるがままついには大技まで何発か披露した。それも全部、吸い込まれるように消えていったのだけれど。

「何の手応えもなくってよォ、モルモットてなァ、きっとあんな気分なんだろうねえ」
「誰もそうは思ってねェよ。それに仕方ないだろ、政府から言われてんだから」
「わかっちゃいるけどねえ…まぁったく、あんな無駄撃ちさせられたら嫌にもなるってもんでしょうがァ」
「オジキのは無駄じゃねェだろ」

無駄じゃねえ、と繰り返して突き当たりの扉を開いた戦桃丸は、手前で足を止めて目をぱちくりとさせた大将を訝しげに見上げた。その表情は夕日に反射したレンズの所為で読み取りにくかったけれど、柔らかく弧を描いた口元はいつも通りにも見えたし、いつもより少し嬉しそうにも見えた。

「戦桃丸君のそういうところ、わっしは好きだねえ」
「いきなり何言ってんだよ…それより飯、食いに行くんだろ」
「君の奢りかい?」
「ここはアンタが『奢る』って言うとこじゃねェのか」

そうだねえ、と微笑んだ大将は、戦桃丸が押さえたままだった扉をすいとすり抜け、上機嫌に肩を揺らして食堂へと向かった。

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