禁煙日(ヤマカジ)
いったいどうした、と言葉にはしなかったけれど、赤犬大将の鍔に隠れた片眉が持ち上げられたのに気づいた部下のひとりは、禁煙日ですよ、と苦笑し、控えめな小声で彼に答えた。合点のいったようにフンと鼻を鳴らした大将は、まるでどうでもいいとでも言いたげな、薄いが確実にそうと読み取れる表情で議事の間に足を踏み入れる。
ひどいときには向こう側を見通すことすらむつかしいほど煙たいこの部屋が、今日はずいぶん澄んだ空気で満たされている。しかしその空気が実に重苦しい。ぎりぎりという歯ぎしりがそこかしこから聞こえてくる始末で、大将は再び呆れたように鼻を鳴らした。今日一日、どこへ行ってもこれと同じ光景を目にするだろう。


「今そこでステンレスがオニグモに殴りかかられていたのはこれか」
「また『禁煙できたおれ勝ち組』みたいな顔して話しかけたんだろ」

先ほど帰港したばかりのストロベリーは長い指の先でガムの箱を弄び、常の穏やかな笑みで口元をもぐもぐさせるヤマカジはのんびりと報告書をめくっていた。
本部の門をくぐるとき、守衛室の付近に長蛇の列ができていたのもこれのためだ。一時預かり所で回収される煙草や葉巻の箱、箱、箱…。禁煙日には本部内にそれらを持ち込むことすら禁じられている。そうしたためられた元帥の署名入りの張り紙が目に入ってしまった以上、従わぬわけもいくまい。上官命令は絶対だ。その上官命令で、存在自体が煙の某将校はあらかじめ遠征の予定を組まれていた。本人だって近寄りたくもないだろう。

非喫煙者のストロベリーには何の影響もない、しかし喫煙者どもからしたら気が狂いそうな問題であるらしいこの禁煙日は、もとはあまりにも多い中毒者を少しでも減らそうという医療塔医師団からの提案だった。吸う本人たちはもとより、吸わない周りのものたちへの被害も極めて深刻である由。それに乗っかった嫌煙家たちの後押しと、それはいい案だ、と気軽に応じた元帥の一声が決め手だった。兵たちの健康を気遣うのなら、全館禁煙にするか少なくとも分煙にすべきだろうが、喫煙者が異様に多いこの海軍本部では中々それも成り立たない、らしい。だからこうして時々、愛煙家たちの怒号や悲鳴がそこらじゅうから聞こえる日が、数ヶ月に一度はあるのだが。

「お前はずいぶん余裕そうに見えるが」
「ああ、おつるさんから事前に聞いていたから、数日前から減らしていたのさ。それにこれもあるしな」

大将のひとりから差し入れられた禁煙用のガムを頬と歯茎の間に挟み込み、微笑みを崩さずペンを動かすヤマカジはどこからどう見てもいつも通りだった。葉巻を咥えていないことを除いては。いらいらと足を揺するでもなく、ひとに突っかかるでもなく、ごくふつうに仕事に勤しんでいる。鉄の意思でもって、と言うにしてはあまりにも気楽そうに見えた。あれだけひっきりなしにふかしている葉巻が、中には手元に無いというだけで不安そうに空のポケットをまさぐっているものもいるのに、この男の平静さといったら。

「そのままやめてしまえばいいじゃないか」
「むつかしいだろうなあ」
「そうは見えんが」
「まあまあ、つらい仕事中の唯一の楽しみを取り上げてくれるなよ」

笑い顔が苦笑と呼べるものに変化しても、彼の穏やかな雰囲気は変わらない。つとめてそうしているのではなく、あえてそう振舞っているのでもなく、これが彼の「ふつう」。この男を揺るがすものなどなにもないのでは、と思えるくらい、ヤマカジは平然としていた。それにつらいなど、つゆとも思ってはいないはずだ。

あの笑みの下で何を考えているのか、うまく読めた試しはない。ストロベリーがじっと観察すること数分間、無遠慮な視線を煩がる素振りも見せない同僚は相変わらずにこにことしている。割に付き合いは長いほうだと思ってはいるけれど、時折こういう一面を垣間見るたび、いや、いつも見てはいるのだが、ひどく落ち着かない気にもなる。
彼は内心そうひとりごち、浅くため息を漏らした。こちらだって、あまり読み取られやすいほうとは言えないだろうが。

「疲れているんだとは思うが」
「あ、ああ…」
「黄猿さんのところへ行くんならこれもついでに頼めないか」
「別にいいが…何か予定でも?」
「いや、半休貰ってる」

悪いな、といっそう笑みを深め、よっこらしょと言ってヤマカジが立ち上がる。人好きのするいつもの笑顔で紙の束を差し出し、こちらが持ってきた西のブランデーを嬉しそうに手に取った。もともとが彼に頼まれていた土産物だ、まさか今日のためだったのか。艦の航路も天気も予測していたのだとしたら脅威的だが、しかし、ああそう、これが彼なのだ。誰よりも要領が良く、そつなくて、抜かりない。
さ、店仕舞いだ。そう言ってヤマカジは同僚に笑いかけ、彼を容赦無く部屋から追い立てた。

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