5.疑いの図書室

 次の日、私は自室にいるのをなるべく避けた。ディエゴと話したくなかったのだ。
「考えてみれば、最初からあの男を避ければいい話だったのよ」
 朝起きて準備を済ませたらすぐに、部屋を出ていく。今日は『使用人の代わりに起こしに来た』という名目で来るつもりはなかったらしく、彼は私の部屋を訪ねて来なかった。しかし、それはそれで何故だか気に食わない気持ちになっていることに、この時の私は気づいていない。

「……なーにが、『蛇は君の方だ……』よ! 私がいつ、どんな嘘をついたってわけ」
 私は、朝食もとらずに図書室へと向かっていった。あの男と義母が偽りの愛を見せつけながら食べる料理の不味さったら! 後で食べましょう。叱られたって別に構わないわ。
 普段は自分から図書室に向かうことはないが、たまには良いだろう、と扉を開く。―――『シャーロック・ホームズ』の『緋色の研究』でも読もうかしら?
 カタ、と古めかしい扉を開ける。当然、こんな朝からは誰もいない。
 ふっ、と思わず息を吐いた。もしかしたらあの男がここにいるかもしれないと一瞬だけ警戒したのだが、どうやら杞憂に終わったようだ。流石にいないわよね。
 ―――確か、『緋色の研究』はお義母さまが読んでいたはず。だから、どこかにあるはずだわ。
 そうして私は『緋色の研究』を見つけて、それを読み始めた。

 ただただ、本の世界を読み耽った。


「―――ナマエッ!」

 誰かが私のことを呼ぶ。私の身体に触れる。小説の中に落ちていた私の意識が、急速に現実に戻された気分がして、たちまち不機嫌になった。私は顔を上げようともせずにこう放つ。
「―――なによ、今いい所なんだから邪魔しないで」
 そして、私はもう一度本に目を落とした。これを読み終えるまで、誰に何と言われようとここを動くものか。
 私がそういった意思を見せると、相手は途端に黙った。そして私は現実世界への興味をなくし、ただ小説の世界に没頭したのだった。


「―――ふう」
 声を漏らした。素晴らしい小説を読んで心が動かされると、いつも自然にため息が出る。
 ゆっくりと現実へと戻っていく感覚。好きなだけ余韻に浸る、この時間が私は大好きだ。あまりここには来ないのだが、たまにこうするのは、至上の贅沢とも言えるだろう。
 ふ、と目線を上げると―――余韻が、全て吹っ飛んだ。気分が一気に台無しになり、強制的に現実へと戻される。
「……な、なんであなたがここに」
 男―――ディエゴ・ブランドーは、私の向かいの席で本を読んでいた。私が思わず声をかけると、パタン、と本を閉じ、鋭い瞳でこちらを見てくる。
「……あの人に、君を呼んでこいって言われたんだよ。あの人、怒ってたぜ。朝食にも顔を出さないなんて、ってな」
 さっきも声をかけたのに一蹴されちまったからそっとしておいたけどな、とディエゴは肩をすくめる。そこで私はようやく、自分がお腹を空かせていることを思い出した。
「―――今、何時なの」
「さあ、今オレは時計を持ってないから正確にはわからないが、君がここに来て二時間は立ってると思うぞ」
 ……二時間も、私はずっと、ここにいたのか。流石に自分の世界に入り込みすぎていた、と少し反省する。
「……この調子だったら、私の朝食、下げられてるわね。昼食まで待つことにするわ」
 お腹の虫が鳴り出す。私がため息をついてぼやくと、

「なあ、ナマエ」

 突然、この男が私の名を呼んだ。この男に名を呼ばれると、いつもゾワッとした感覚に襲われる。私はそこで、男に対する警戒心をようやく思い出した。今日はなんだか調子が出ないみたいだ。
「…………。……何、よ」
「あの人にはもう言ったんだが。明日の午後、レースがある。君も来い」
 男は涼しげに放つ言葉に対し、私は顔を顰めた。一瞬、本気で何を言われているかわからなかったのだ。
「……はあ? なにそれ、強制? お義母さまだけ呼べばいいじゃない。なんで私が強制的にそんな所へ連れてかれなきゃならないわけ」
「ああ、あの人は明日は来れないらしい。だから、いいだろう? なあ、ナマエ」
 また、この男が私の名を呼んだ。心なしか、いつもよりトーンが少しだけ甘い気がする。精悍な瞳に貫かれて、一瞬流されてしまいそうになるが、耐えた。―――ダメよ、お義母さまや、ほかの女どもの二の舞になりかねないわ。
「……なんで? また『仲良くなりたいから』なんて馬鹿げたこと言うんじゃあないでしょうね」
 私の疑問に対し、男は馬鹿げた返答をする。からかっているようにも、真面目にも見えて、どう判断すべきか、困ってしまった。

「ま、そうだな。言い方を変えるとすれば、―――『オレと君は仲良くならなければならない』。オレのためにも、君のためにも。なあ、違うか?」

 私、『ナマエ』と、男『ディエゴ』が仲良くなる、利点。
 この男にとって、私を取り込むことはどう利点になると言うのだろうか? 昨日は流してしまったが、私には男の動機が、よくわからないままだ。
 そして、私にとって、この男と仲良くなることは、どう利点になると言いたいのだろうか? これに関して、私には全く理解することができない。
「何故、私とあなたのためになるのか、全くわからないわね。むしろ私にとってはマイナスの方向へ進んでないかしら、それ」
 私が当然の疑問をぶつけると、男が含みのある言い方をした。

「……今は理解出来なくてもそれでいい。今は、な」

 なんだかますます、私はこの男を信用できなくなってきた。もしかして、この男の目的は―――一族の財産以外にも、まだ何か裏があるのか?

「それより、さっきから腹の虫がなっているようだが。食堂に戻ったらどうだ? 実はナマエの分も全て下げられた訳ではなくて、少しは残されていたらしいぜ」
「……それを早く言いなさいよ」
 唐突にやや軽い調子で言い出すので、私は思わず噛み付いてしまった。お腹を空いているのをどうやって凌ごうか、食べかけのチョコレートでも食べようか、なんて思ってたくらいなのに。

「じゃあ、オレはこれで」

 男がそう言っていつも通りの口調で去っていった。私はそれをすっかり見送ってから、ようやく腰をあげ、食堂に向かった。一緒に行きたくはなかったのだ。
 廊下で彼を見かけたが、声をかけようとはしなかった。
 
 考えてみれば、この男と『面と向かって』『二人きり』で話したことなんて、これが初めてかもしれない。だから何だ、ということはないが。ただ、この男に対しての疑いが、さらに増えたことだけは確実である。

 それにしても、明日、あの男のレースを見なければならないのか。お義母さまにも、もう伝えてしまったらしいし。放り出すわけにもいかないのだろう。あーあ、どうすればいいのかしら。今からなんだか憂鬱で、なんだかとても面倒だわ。

 このレースがきっかけで、私とディエゴの関係が大きく変わることに、そして運命が変わることに、この時の私は気づいていなかったのだった。

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