6.レースと過去と運命と

「……あの男、馬は上手なのね」
 ポツ、と呟いた言葉は、歓声の波に呑まれて消えた。

 私は今、仕方なくあの男が出ているレースを見ている。何故かかなり良い場所をとってしまったらしく、レースの様子が全体的に良く見えた。特に、彼がトップを走っているのがよく分かる。レースの時にはいつもあのヘルメットを付けているのだろうか? 「DIO」と主張の激しいヘルメットと、艶やかな金髪のお陰で、あの男がどこにいるのかすぐに分かるのだ。追いつかれそうになっても、何をどうやっているのかはわからないが逆に引き離しているように見える。流石は競馬界の貴公子、と言ったところだろうか?
「……だからと言って、認めるわけじゃあないのよ!」
 歯ぎしりをしながら漏らした言葉も、誰にも届くことはなかった。

『現在、ディエゴ・ブランドーが単独トップとなっています!』

 こんなアナウンスを聞くのも、もう何度目だろうか。辟易しながら、私は息を長く吐いた。


 馬に乗っている人たちを見ていると、思い出すことがある。
 私の記憶にあるうちの、最も古い記憶。当時私は生後五ヶ月にも満たなかったので覚えているはずはないのだが、なぜだかハッキリとその情景が思い浮かぶ。もしかしたら、義母に何度も聞かされて、覚えている気になっているだけかもしれない。
 その日、私は独りで泣いていた。川に流され、今にも溺れそうになっていたのだ。
 そこを、たまたま馬車が通りかかった。乗っていた夫人―――後の私の義母は、私を助けてくれた。拾って、育ててくれたのだ。
 そして、それを思い浮かべる時、何故か私はその馬車を率いる、馬の瞳を思い出すのだ。馬が何をしたわけでない。だが、その優しげな瞳を思い浮かべる時、私はいつもこう妄想した。
 いつか白馬の王子様が迎えに来てくれて、私はいつまでも幸せに暮らす、という、どこにでもあるような、馬鹿げた妄想を。
 しかし、今私の近くにいるのは、白馬の王子ではなく、競馬界の貴公子。しかもその人は、戸籍上私の義父となっているのだ。その妄想は永遠に現実になることはないだろう、と、自分の愚かさにただため息をついた。


 気がついたら、あの男が優勝してレースが終わっていた。一際大きい歓声が、強制的に私の意識の底から現実に引き戻す。―――正直、想像通りと言ったところだろう。まあ、誰がトップになろうと、私としてはどうでもいいのだが。
 今、ディエゴ・ブランドーはインタビューを受けているらしい。観客どもはできるだけそちらの方向に向かい、その様子を見ようと必死になっている。私は競馬自体にも、あの男がインタビューでどんなことを喋ろうと興味はないので、すぐにその場を立ち去った。私がいつまでもここにいる義理はない。


 使用人が、「ディエゴ様も戻ってこれないと馬車を発車できません」と言うので、私は仕方なく馬車の近くで待機していた。馬の優しい目が私を見つめる。この馬は流石に私が拾われた時の馬ではないだろうが、それでもその頃の情景が思い浮かんでしまったのだった。

「―――ナマエ」

 なんの前触れなく名前を呼ばれ、思わずビクリと反応してしまう。振り向くと、レースで優勝を勝ち取った男がそこにいた。
「…………」
 何か言おうと何度か口を開きかけたが、閉じてしまった。なんだか最近、この男にどう接していいか、わからなくなってきている気がする。良くない傾向だ。
「……優勝、おめでとう。けれど、あなたのことを認めるわけじゃあないわよ」
 なんとかそう言った。何も言わないのは、流石に失礼過ぎると思ったからだ。
 男が何か言いかけたところで、そろそろ発車しますか、と使用人が声をかけてくる。私はお願いするわ、と言おうとしたが、男はそれを制した。

「……ナマエに話があるんだ。後にしてくれないか」

 え? と困惑する私を置いて、使用人は分かりました、と恭しく礼をした。
「ちょっと、話ってなんなのよ」
 そう言う私の腕を引っ張って、男は無言で歩き出した。

 ―――男の人の、手だ。大きくて、暖かい。

 ぼんやりそう思っていることに気がついて、慌てて頭を振る。大丈夫、私の目の前にある背中は、一応『義父』であるディエゴ・ブランドーだ。金髪が綺麗で、それでいて顔も整っているけれど、金の為ならなんでもやるような男だ。最近、ぼうっとすることが多くなっている気がする。しっかりしろ、私。

 男は、コーヒーハウスへ入ったところで、ようやく私の腕を離した。掴まれたところが、少し痛い。
 男が注文するので、私も適当に注文する。男は余裕そうな表情だが何も語らないので、私の方から話を降ることにした。
「……結局、なんなのよ。私に話って」
 正直、私にはこの男が何をしたいか、てんでわからない。どこから話を振られるか、全くわからないのだ。最近緩んでいたが、改めて警戒を強める。
 ―――この男は義母さまを誑かした男。信用しては、いけないわ。
「そうだなァ……」
 来た。男が話し始める。全身全霊集中する。何と言われようと、私は彼に流されてはいけないのだ。


「まず最初に聞こう。君は、『運命』を信じるか? なあ、ナマエ」

 ディエゴは、少々意外な方向から話し始めた。まさかこの言葉が、これからの将来に関わってくるほど重要な単語だとは、この時の私にはわかるはずもなかった。

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