3.待ち人は何者か

 何かが、何かが足りない。
 百年越しに目覚め、エジプトの館にやってきてから数日――私は、空虚な感覚に襲われていた。
 掃除をする。ディオさんの傍で本を読む。そんな生活を繰り返しているのに、何故か物足りなさを感じている。

 ……彼に対し、百年ぶりに紅茶を渡したときも、そうだった。
「フフ……ナマエの淹れる紅茶を飲むのも百年ぶりだな。確かに、ナマエの淹れる味だ」
 ディオさんは機嫌良さげにそう言ってくれる。もう二度と彼に飲んでもらえることもないかもしれないと思っていた紅茶を、私は、再びディオさんに飲んでもらっている。
 それが、嬉しくないはずがない。ディオさんがジョジョさんの身体を手に入れ、百年振りに再会した。ジョジョさんの件に関しては複雑な思いはあれど、しかし、ずっと待ち続けていた「ディオさん」が私を迎えに来てくれたことは、本当に嬉しいはずなのに。
 それなのに。何故か、満ち足りないのだ。
 ずっと、飢えのような感覚が喉から離れなかった。いくら血を飲んでも、ディオさんの傍で仕えていても、それは変わらなかった。
 生前は、こんなことはなかったはずなのに。
 主人に仕えることが、私の生き方であり、喜びのはずなのに。


 なので私は、思い切ってディオさんに打ち解けた。ここでの暮らしに、何故か空虚感を覚えているのです、と。恥じるような気持ちになりながら。
「……待っていないから、だろうな。あるいは、今でも『何か』を待っている、と言うべきか」
 ディオさんは本に目を走らせながら、何気なく言った。
 どういうことかと聞くと、彼はまた、さらりと呟く。なんでもないことのように。
「おまえは、待つことそのものが目的になっているのだろう。生前のナマエは、わたしが帰ってくることを、ずっと待ち続けていたのだろう? 今こうして、このDIOがおまえを迎えに来たとしても。ナマエは今でも、待つということが習慣化されているのかもしれんな」
 ――吸血鬼となった者は、生前の生き方を強く覚えている。そういうことだろうか。
 ディオさんはそれ以降何も言わず、読書にまた没頭してしまった。だから私も、黙ってひとりで考える。
 確かに私は、ずっと待っていた。ディオさんが帰ってくる日のことを。その日が来る前に数年で、私は死んでしまったが。
 しかし。ディオさんは、百年越しに迎えに来てくれた。その時点で、私は待つ必要はなくなったはずだ。それなのに、私は何かを「待っている」からこそ、満たされることはない。

 それならば。
 私は一体、何を待ち続けていると言うのだろう?


「ナマエ様」
「あなたは確か……エンヤ婆?」
 紅茶を片付けて館のキッチンから出ると、背の低い老婆に話しかけられた。
 私は、ディオさん以外の館の人間とはあまり会話しない。彼が部下を集めて何をしようとしているかも知らない。だが、館に常駐している彼らとは、顔を合わせる機会も時々あった。
「そうでございますじゃ。わしは、DIO様にスタンド能力を教えた者ですじゃ」
「……スタンド?」
 スタンドとは何だろう。その話は初耳だ。眉を顰める私に、老婆は鋭い瞳でこちらを見ながら言った。
「ナマエ様は、DIO様と同じく不死身――ならば、確実に『スタンド』を身につけることもできるはずですじゃ」
 彼女の唐突な言葉に困惑したが、ひとまず、これだけ先に言うことにした。
「……そのような呼ばれ方をするのは、慣れないのでやめてもらえませんか」
 私は、あくまでディオさんの使用人だ。彼の部下であるエンヤ婆や執事のダービーに、恭しく扱われる理由はない。
 しかし、エンヤ婆は首を振った。
「DIO様がこう言ったのですじゃ。……ナマエ様のことは丁重に扱うようにと。従わない者は殺す、と」
「……そうですか」
 ディオさんは何を考えているのだろう? 私のことを、どうしたいと言うのか? 使用人である、私を。……私はそんなディオさんと、どうなりたいのだろう?
 ……少なくともこれは、エンヤ婆に今言っても仕方ないだろう。だから私は、話を戻す。
「それで……スタンド能力とは、一体何の話ですか?」
 すると老婆は、物々しい口調で教えてくれた。

 曰く。スタンド能力とは精神の力。簡単に言えば、超能力のようなもの。
「矢が、選ぶのじゃ。この矢は、適正のない者には死を与えるが、生き延びた者には力を与える――ナマエ様は不死身。ならば、必ずスタンド能力を得ることができるはずですじゃ」
 老婆の言葉を脳内で反芻する。エンヤ婆が何故、私にスタンド能力とやらを身に付けさせようとしているのかは、よく分からないが。
 だが。彼女が言っていることが本当なら、もしかしたら。私は、自分の望む力を手に入れられるかもしれない。
 何とも分からないものを「待ち続けている」この空虚な日々の打開策が、もしかしたら見つかるかもしれない。
「きっと、DIO様の力になるはずですじゃ。わしはそれを確信している! DIO様が特別目をかけているナマエ様なら、きっと大きな力を得るじゃろうと!」
 エンヤ婆は力強く言う。そんな彼女を見ながら、私はふと思った。
 ――ディオさんは、これを求めていたのか?
 百年経って、三年経って、ようやく私を迎えに来てくれたのは。このためなのか? 彼は、「忠実なる使用人」の得るスタンド能力を、求めていたのだろうか?
「それに……ナマエ様は、何か強い願いを持っている。ナマエ様のスタンドが、それを叶えるじゃろう」
 老婆のその言葉に、我に返る。
「願い……ですか」
 私の願いとは、何だろう。
 それが、私とディオさんの願いを叶えるものに、なるのだろうか。

「ナマエ様、その矢を持ってくだされ。何か、力が発現するはずですじゃ」
「……はい。やってみます」
 言われるがまま、エンヤ婆から手渡された矢を、手に取ることにした。もしかしたらこれで、私の望む力を手に入れられるのかもしれないから。
 それは一見、何の変哲もない矢のようにも見える。だが、その刃先が、きらりと光ったような気がした。
 そして――
「うっ!?」
 その矢はそれまで、普通の矢だったはずだ。
 それなのに、なんということだ。なんと――矢が勝手に動き出し、そして、私の胸を勢い良く貫いたのだった。
「ああっ……!」
 久しく感じていなかった、苦しみ。痛み。自分が不死身の身体なんて忘れかけるような。このまま死んでしまうのではと、そう思うような。
 だけど。……だけど。
 死んでたまるか。
 私は、主人に仕える使用人として、ディオさんの役に立ってみせる。そして私はディオさんと――
 彼のことを、もう二度と失わないように。
 二度と、彼をひとりにさせないように!


 そして、どれくらい時間が経ったのだろう。
 私は息を切らしながらそこに立っていた。矢は、私の側に落ちていて、矢が貫いたはずの傷は、そんなもの最初からなかったかのように塞がっていた。
 まず目に入ったのは、私のことを見上げているエンヤ婆。
 否。彼女は、私の後ろの方を見上げていた。
「ナマエ様のスタンドは……メルセゲルの女神の暗示を持つスタンドですじゃな」
 老婆は静かに言う。
 メルセゲル?
 聞き慣れない神の名だ。このエジプトの女神なのだろうか。そう思いながら、私はゆっくりと振り返った。
 私の後ろに、鎌を持ち蛇の頭を持つ女が、側に立っていた。
 これが、私の能力。側に立つ者――『スタンド』。


「ほう……『メルセゲル女神』。死者の守護者や王家の谷の守り手とも呼ばれる、静寂を愛する女神だな。いかにも、おまえらしいスタンドだ」
「……ディオさん」
 いつのまにか、私の主人がそこにいた。
 私らしい、とはどういうことか。しかし、それを聞くことなく、私はそのスタンドに目を向ける。
「メルセゲル」
 私はそれの名を呼ぶ。エンヤ婆によれば、スタンドとは精神の具現化であり、それぞれできることが違うのだという。
 ならば、メルセゲルの名を冠する彼女は一体、何ができるというのだろう。
 守り人の神の名を持つ、彼女は。

 そうやって、私が『メルセゲル女神』に手を伸ばした瞬間。
 辺りが急激に、闇に包まれたような感覚があった。部屋の様子は問題なく見渡せる。だが、暗い。
「……? ナマエ様?」
 そして、エンヤ婆がきょろきょろ周りを見渡し始めた。ディオさんは顔色を変えなかったが、「フム……」と考えるような素振りを見せた。
「えっと、ディオさん? エンヤ婆? ……聞こえていますか?」
 声をかけてみる。しかし、二人は返事をしない。目の前にいる私のことも、見えていないようだ。
 意を決して、ディオさんの手にそっと触れてみた。それに気付いたのか彼は、満足げに笑っていた。
「フフ……大体分かったぞ、ナマエ。もう充分だ、姿を現すといい」
 そして私はディオさんの目を見た。
 その瞬間、一気に闇が晴れた。
 ディオさんもエンヤ婆も、私のことを知覚できるようになったようだった。


「今、何が起こったのでしょう?」
 首を傾げながら、思わず呟く。するとディオさんは、楽しむように口を開いた。
「ナマエ、おまえは何が起きたと思うか?」
 質問を質問で返された。しかし、素直に自分で考えてみることにする。

 ディオさんとエンヤ婆は、私のことが見えていないようだった。
 彼らに声をかけたが、二人とも返事をしなかった。
 そして、私がディオさんの手に触れた瞬間には、彼は私の手が触れたことに気がついたようだった。
 そして。私とディオさんが目を合わせた瞬間、二人は私のことを認知できるようになったようだった。

「他の人が、私のことを認知できなくなる能力ということ、でしょうか。私はディオさんの名前を呼びましたが、聞こえなかったのですよね?」
 そして、能力が外れるトリガーは、誰かと目を合わせること、だろうか。
「……確かに、わしにはナマエ様の姿が見えなくなり、何も聞こえませんでしたじゃ」
 老婆は静かに言う。確かに、そういう能力らしい。
「なるほど……面白い能力だ。スタンドは適材適所、上手く使えば、わたしの役に立ってくれるだろうな」
 何故私がこのような能力を得たのだろうか。自分の能力だが、自分でもよく分からない。これが、私の望みを叶える力となるのだろうか。
 考え込む私の頭に、ディオさんは、そっと手を置いた。
「とはいえ、初めてだから今日はこれくらいにしておくとしようか。ナマエ」
 その声色が、やけに優しい。
 私のことを気遣う理由が、どこにあるというのだろう。
「おいエンヤ婆、わたしはナマエを連れて寝室へ行く」
「かしこまりましたじゃ」
 老婆に見守られながら、私たちは廊下を歩き出す。機嫌が良さそうなディオさんの後ろを歩きながら私は、そっとため息をついた。考えることは、後回しにするとしよう。


 確かに、今日はそろそろ眠ってもいいかもしれない。考えなくてはいけないことはたくさんあるが、不死身の身体にも休息は必要だ。
 そのとき、ディオさんが寝室に来ることの意味を、全く考えていなかったのは、私の大きな過ちだったのかもしれないけど。

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