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 不意に鳴ったノックは、こんこん、というよりも、とっとっ、といった風の音で、どちらかといえば床に近いあたりからのものだった。
 それに反応して立ち上がった工藤さんが扉を開け、姿を見せたのは両手でトレイを持つ哀さん。
 状況から言って、足で叩いた、というか蹴った、のだろうか。上品なお嬢さんなイメージが強いのでちょっと驚いてしまった。いや哀さんだってサッカーも嗜む健全な小学生だしちょっとくらいヤンチャなところがあったって不思議ではないのだろうけども。
 入室した哀さんは、ちらりと工藤さんを見上げると、片眉を軽く跳ねさせた。

「あら。あなたのことだから、ありすちゃんそっちのけでホームズでも読み耽ってるかと思ったわ」

 う、うーん大当たり〜。
 名探偵哀さんの言葉にそわそわとした工藤さんは、わたしの方を伺って告げ口の気配がないのを確認すると、やや裏返った声を張り上げ、「んなわけねーだろ〜!」と明らかに動揺しきったハイすぎる調子で言い、不自然に口角をあげて笑った。
 う、うそがへたくそ〜。それでは大好きなホームズさんに三秒で犯人と言い当てられてしまうのでは。いやファンとしては嬉しい限り?
 哀さんは、へえーとなかなかの棒読みでそれに返すと、じと目で工藤さんとベッドサイドテーブルに置かれたバス……なんとかわんわんの本をねめつけてから、ぱっと表情を変えてわたしへ向き直った。
 そのまますたすたと歩いてきてわんわん本の上に躊躇なくトレーを置き、先程まで工藤さんが座っていた椅子にこれまた遠慮なくひょいっと腰掛けて、「あなたのご飯も作ったから食べてきたら?」とちょっぴり追いやるような言い方で促すと、やや渋い顔をしながらも部屋を出る工藤さんを見送った。
 トレーの上に乗っていたのは、シリアルを食べるときなんかに使っているスープボウルだ。哀さんがわたしの視線を追って苦笑する。

「お腹空いてるでしょうけど、ちょっと待ってね。良い食器がなくって。まだ熱いかも」

 確かに陶器の器もステンレスのスプーンも、目に見えて湯気を立てているその熱をもろに伝えそうだ。

「ありがと、です」
「調子はどう?」
「だ、だいじょぶ……」

 声を出したついでとでもいうように、けほっと咳が出た。
 哀さんはそれにほんの少し眉を寄せて、ベッドの縁に手を付き身を乗り出して、わたしの額に掌を当てて、「こっちもまだ熱いわね」と言った。ひんやり冷たく感じたのはそのせいらしい。
 そういえば目覚める前、うつらうつらとしていたときにも、こんな風にされたような気がする。その時はもっと大きかったような。

「ねつ、ある?」
「ええ、ちょっとね。とりあえず計ってみましょうか」

 哀さんは迷いもなくベッドサイドテーブルの引き出しを開け、中から取り出した体温計をわたしの脇に挟んだ。そ、そんなところにあったなんて知らなかった。

「咳もそんなに酷くないみたいね。気持ち悪いとか、お腹が痛いとかはある?」
「ない……と、おもう」
「他に痛いところとか、変な感じがあったりは?」
「えと、のど、ちょこっと……あとは、よく、わかんない」
「ご飯は食べれそう?」
「う、うん」
「薬は用意してるから、ご飯の後に飲みましょ。そしたらずっと楽になるはずだわ」

 少し待って、ぴぴ、と音が鳴る。なんとなく、最近の体温計はすぐに計れてしまうイメージがあったけれど、思ったより遅い。
 哀さんは、さっと引き抜いた体温計を見て「八度ね」と言った。

「きついかもしれないけれど、体がちゃんと病気と戦ってる証拠よ」

 それから、同じく引き出しにあった薄いビニールの小袋を開けて、その包装の中身である湿った脱脂綿のようなもので感温部を拭って捨てると、体温計をまたケースに入れて仕舞う。
 見た目よりかなり落ち着いているところは相変わらず、と言えそうなほど始めからずっとだけれど、それにしてもなんだかずいぶん慣れた素振りに見える。
 もしかして、こういうことをする機会が多いのだろうか。年下の子の面倒を見たり――きょうだい、のような存在が、いるのだろうか。
 そう考えた途端、脳裏で、胸のうちで、あの低い声と、それに対する困惑とがまた顔を覗かせる。
 未だぼんやりして働きの鈍い頭のせいか、仕舞いきれなかったそれらは、少しも纏まりを持たせられないくせに緩んだ隙間から転がり出てきて、挙句口から漏れ出てしまった。

「あの、い……いもうと、って……」

 わたしの言葉に、哀さんは殊の外きょとりとして瞬く。その反応から咄嗟に湧き出た、勘違いや聞き間違いだったかも、なんてどこか甘い考えと僅かに湧いた安堵のようなものは、すぐさま振り払われて霧散した。
 哀さんが、「ええ」と静かに言って頷いたのだ。

「まだちゃんと聞いていなかったのね。――そう、私はありすちゃんのお母さんの妹だわ。ちょっと歳が離れてる“ように見える”けどね。それは事実」

 驚愕がなかったわけじゃない。ただ、それを不安が上回った。

「あ、あい、たん……わたし……」

 哀さんは、それだけで、というよりもこれまでのことと、今のわたしの様子で、わたしの言いたいことを分かっているようではあっても、それを口にして言い当てたり、引っ張り出すような手助けをしたりはしなかった。
 静かに、わたしの言葉を待っている。
 その様も、重なるものがあると。頭なのか、心なのか、もっと奥か、はたまた別のところなのか。微かではあれど、どこかで、確かに感じた。


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