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 ふわりふわりと、ようやく意識が浮かび上がったのは、ずいぶん経ったあとのように思えたけれど、部屋は先程に比べてさほど暗くなっていないし、なによりその人がいたので違うだろうと分かった。
 ベッド横にダイニングチェアを置いて座っていたのは、工藤さんだ。
 体はこちらを向いてはいるものの、視線は手元に落とされていて、わたしがもぞもぞとしても、こちらに移ることがない。ぺらりと、微かな音とともに、工藤さんの手が小さな動きで、視線の先にある本のページをめくった。
 よっこいしょと体を起こして、いつもの倍くらい気合を入れなければいけなかったことに首を傾げながらも、しゃかしゃか音を鳴らしつつコンフォーターを足元の方へと押しやる。コンフォーターもシーツもちょっと湿っているところから、どうやら結構な寝汗をかいてしまったらしい。いつもはそんなことないし、そんなに汗っかきでも暑い時期でもないはずなのに。
 真剣なその顔を覗き込むよう、視界に映るよう体を傾けてみたものの、工藤さんは相変わらずこちらをチラとも見ない。随分集中しているらしい。あるいは、もしかするとわざと無視されている?
 けれど、わざわざわたしの寝ているこの部屋で、ベッドの横にいたということは、少なくともわたしか、わたしが占領していたこのベッドかに用があってのことではなかろうか。

「あの……」

 ちょっぴり勇気を出して、その袖の端をついついっと引っ張ってみると、工藤さんはびくりと体を跳ねさせ、わたしを見て目を丸くした。

「起きてたのか。わりぃわりぃ、読みだしたら夢中になっちまって」
「う、ううん」

 むしろお楽しみのところを申し訳ない。
 読み途中だったようなのに、工藤さんは栞もつけずに本を閉じて、ぽりぽりとうなじを掻いた。
 
「さすが赤井さんっつーか、全部揃ってるだろ? オレもホームズ好きでさ、中身は読んだことはあるけど、持ってない装丁のだったから、つい」

 そう言って、工藤さんが本をこちらに向けて軽く掲げた。
 英字とシンプルな絵が描かれた表紙のペーパーバックだ。どちらかというと大量に刷ったもののようで、別段特殊な装丁にも見えないけれども、そういう違いすら気になってしまうということは相当好きなのだろう。ええと、ホームズ、が。

「しゃーろっく?」
「そうそう、シャーロック・ホームズ」
「わんわん」
「……わんわん?」

 その単語からわたしの想像したものと同じだったかと思いきや、工藤さんは一拍間を置いてから、小さく首を傾げた。
 わたしの中ではホームズといえば帽子をかぶってパイプをくわえて、ちょっと間抜けであんちくしょうな悪い教授を捕まえる犬のイメージなのだけれど、工藤さんの言うそれとは違ったらしい。

「あ、もしかしてこれ読んだことあんのか?」
「えっ、よ、よんで、ない……」
「話だけ知ってるのか。赤井さんが教えたのかな、××××××××××××」

 今黒光りなんとかさんみたいなことを言ったような。
 聞き取れなかったものでどう反応しようとあたふたしていたら、工藤さんは「バスカビル家の犬」と、日本語で言い直してくれた。
 しかしその表紙をまじまじと見てみれば、“THE HOUND OF THE BASKERVILLES”と印字されている。

「いぬ……どっぐじゃ、ない……?」
「ああ、ハウンドも犬なんだよ。猟犬って意味も含んだりして、まあ、そこらへんは言葉の成り立ちやらの話になるし、正確に言えば違うんだけど……日本語でも犬って言ったりワンコって言ったり、ありすちゃんみたいにわんわんとか言ったりするだろ、そんな感じ。あんまり違いはねーと思っていいぜ」

 へーっと感嘆を漏らすと、工藤さんはほんのり得意げな顔をして笑った。
 哀さんがウンチクがどうのと言っていたし、喋るのが好きなようだから、聞いてみればもっと詳しく教えてくれるかもしれない。しかし、問いかけようとした声は喉に突っかかってしまい、音にならなかった。

「けふ」

 わたしのそれを聞いて、工藤さんが思い出したようにはっとした表情を浮かべる。

「そうだった。ありすちゃん、今風邪引いてるみたいなんだ」
「え……かぜ?」
「そう。ちょっと体がヘンな感じだったりしねーか? だるいとか、寒いとか、頭が痛いとか」
「す、する……と、おもう……」
「今の咳もだな。そういうのが出ちまう病気なんだよ」
「びょーき……」
「あ、お医者さんに診てもらった限り、そんなに酷いものじゃないらしいから安心していいぜ。薬飲んで寝てりゃ治るって。それで、今日は一日休んどこうってよ」

 なるほど、なんとなく既知感があると思ったわけである。言われてみれば喉がいがいがとして、体は動かしにくく倦怠感があって、だる重ーいという表現がぴったりだ。
 意識し始めるとそれがより一層強まった気がするし、けほけほと咳が次々出てくる。
 若干慌てたような工藤さんが、本を膝に伏せ、ベッドサイドテーブルにあったネコちゃんのマグを取って差し出してきた。上手く握れないのを見越してか、わたしの手は添えただけで、口元まで持ってきてくれて、啜れるようゆっくりと傾けてくれた。
 中身はほんのりと甘みのある水だった。スポーツ飲料ほどは甘味が強くなく、なんだかまろやかな舌触りだ。

「あ、ありがと、です……」

 いや、と、少し照れたようにして一度視線を逸らし、マグを戻すと、工藤さんは気を取り直すようにして言った。

「そう、それで、赤井さん――お父さんは、どうしてもやらなきゃいけない仕事があるってんで、ちょっと今外に出てる。代わりにオレたちが来たんだ」

 その、なんでもない言葉がやけに耳について胸に引っかかり、淀のように残るのは、きっと風邪で弱っているせいだ。きっと。

「……そ、ですか」

 声が掠れるのも、喉の炎症のせいだ。きっと。


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