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少し歩いてみるか、と聞かれて頷けば、秀一さんは、わたしをひょいっと地面におろしてくれた。 そうして見てみると、低い方だと思っていた草木はわたしの背をゆうに越えて視界を遮り、狭いと思っていた道もかなり広く感じる。これまでの道を自力で帰ろうと思うと、二倍三倍じゃきかないほど時間がかかりそうだ。 ちょこちょこと歩いてみて、振り返って見上げると、ぱちっと目が合う。 秀一さんは両手をポケットに突っ込んで、数歩離れたところに立っていた。更にちょこちょこ歩いて振り返っても、距離は広がることなく変わらない。わたしの後ろを付いてきているのだ。なんだか面白い。 歩いては振り返り、歩いては振り返り、ちっとも進まないそれに、秀一さんは何も言う事無く、ただ同じ距離を保って付いてきてくれた。 秀一さんの一歩分を四歩五歩ほどかけてちまちま歩き、しばらくすると、背の高い木がなくなって、柵の向こうの景色が見えるようになった。 そして、右側にずっと続いている植木のスペースでは、草の背が低くなるにつれ、隙間から線路がちらちら顔を覗かせはじめる。いかにも廃線といった、それだけならノスタルジックなアイテムだけれども、おしゃれな道やベンチに周囲の景色も相まって、もはやアートの一部といった風体だ。 その線路の先をずっと目で追うと、道がカーブになったあたり、左側につらっとひとつながりになった長いベンチが置かれているのが見えた。そのベンチにもちまちまと座っている人がいて――、 「おい――」 ――ばっと、体が駆け出した。 両手は先生を抱いたまま、バランスが取りづらくて転けそうになりながらも、ベンチに座ったその人影をめがけて足を動かす。一生懸命動かしてみても景色の流れは緩やかで、すぐ近くだと思った距離は意外に遠い。あっという間に息があがった。 どうにかこうにかもう少しでたどり着きそうというところで、ついにもつれ、ずべしゃっと地面に突っ込んでしまった。 「大丈夫?」 降り掛かったのは女の人の声だ。しかも日本語。 慌てて手をついて見上げたところ、日本人らしい顔立ちのきれいな女の人が、そばにしゃがみこみ、心配そうに眉を下げて、わたしに手を差し出してくれていた。 わたしが走り出した目的の人。 ――もしかしたら知り合いかも、なんて思ったのだけれども、いざ顔を合わせてみたら全然違った。めちゃめちゃ恥ずかしい。 「だ、だいじょぶ……ありがと、です」 その白い手を取ろうとする前に、脇をむんずと掴まれて、ふわっと体が浮いたかと思えば、すぐに降ろされた。秀一さんだ。わたしを挟んで女の人の反対側に膝をついている。 秀一さんは、わたしがちゃんと立ったのを確認すると、軽く服の汚れを払って、巻き込み事故を食らってそばで転がっていた先生を手に取った。若干後頭部が擦れている。それを秀一さんがまた汚れを払うようぱんぱん叩いた。渡された先生を抱っこして、とりあえず心の中で謝っておく。将来ハゲるかもしれないごめん先生。許さんとな。ぐう。 「急に走るな。危ないだろう」 「ご、ごめんなさい……」 どことなく呆れたようにして息をつくと、秀一さんは女の人に向き合った。 「すみません、お騒がせしました」 同僚さんたちにするのとも、ジェイムズさんにするのとも違う、よそ行きの声である。ちょっぴりびっくり。 女の人は、秀一さんを見てぱちぱち瞬くと、すこし動揺したように、いいえ、と首や手を振った。転んでしまう前に止められれば良かったんですけど、なんて言って苦笑する。百パーセント私が悪いのに申し訳ない。 「あの、ご旅行ですか?」 「いえ」 「すごく自然な日本語だったから、日本の方かと――このあたりに住んでらっしゃるんですか?」 「……ええ」 秀一さんの短い返事に、女の人は「いいなぁ」と羨ましそうに笑う。その手にはスケッチブックがあった。黒と黄色の柄は、日本の文具メーカーのもの、のはずである。 「これ? 見る?」 わたしの視線に気づいた女の人が、わたしに向けて表紙を開き、ぱらぱらとページを捲ってくれた。これまで歩き回った中で見たことのあるような、街中の風景が描かれている。スコティッシュフォールドなわたしでは逆立ちしても描けないシロモノだ。 「せっかく遥々来たんだし、写真もいいけどスケッチして回ろうと思って。下手だからちょっと恥ずかしいけど……」 「すごい、きれい、じょうず……」 「ほんと? ありがとう」 ニコリと笑って、女の人は秀一さんの方を向いた。 「私、観光で来てまして。実は今日は、ホイットニー美術館に行きたかったんですけど閉館中で……。行かれたことあります?」 「まあ、一度」 「カルダーのサーカスが見たかったんですよ」 ほー、と、秀一さんはなんだかどうでも良さそうに返事をする。 美術館でサーカス……ひょっとしたらやるところもあるのかもしれないが、多分作品の名前なんだろう。かる……なんとかは作者だろうか。それとも纏めてタイトル? 「グッゲンハイムも一部セクションが閉鎖してて、来る時期間違えたなぁって、ちょっと後悔してたところです。メトロポリタンはとんでもなく広いし、モマも結構混んでて時間がかかったし、やっぱり一週間じゃ全然足りないですね。いっその事住みたいなあなんて」 「……そうですか」 会話を弾ませたそうにあれこれ喋る女の人に対して、秀一さんはしらとした顔でかなり素っ気ない相槌を打ち、わたしを抱き上げて立ち上がった。 「そろそろ帰ろうと思っていたところなので」 「あ、すみません」 女の人はハッとしたように立ち上がり、軽く会釈をした。わたしに笑いかけて手を振ってくれたのでわたしも返そうと手を挙げたのだけれど、秀一さんはサッと背中を向けて歩き出し、そばにあった階段をカツカツと足早に下りていく。 ハイラインはまだ先があったようだけれど、もうおしまいらしい。 振り損ねた手をすごすご戻したところで、じわっと痛むことに気づいた。そういえばさっき転んだとき、先生がクッションになってくれてさほど衝撃はなかったものの、やっぱり擦れてしまったようである。 |