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 帰路での赤井の沈黙を悪い意味で捉えたらしい子供は、まるで執行を待つ受刑者のような有様だった。青い顔つきで、小さな体を更に縮こまらせ、ぎゅっとぬいぐるみを抱きしめていたのだ。
 帰宅後、そのぬいぐるみを取り上げてソファに置けば、目に見えて動揺を増し、子供は詰まり詰まりに謝罪を口にした。

「怒っているわけじゃない」

 不安がるだろうとは思っていたが、ぬいぐるみを持たせたままでは創部の洗浄と手当がしづらい。赤井は努めて声色を穏やかにして言い、子供をぬいぐるみの隣に座らせて、そのちいさな手を取った。
 細く赤い筋を幾重も走らせる擦り傷は、それよりももっと凄惨なものを見慣れた身にしてみれば些細も些細ではあったが、普段よりもやや冷たい、薄く柔い肌が、実際のところよりも僅かに酷いもののように感じさせる。

「転んで痛い思いをするのはきみだ。場所や転び方が悪ければ、こんな傷じゃ済まず、大人になっても残る跡が出来たり、体のどこかが動かなくなったり、最悪死ぬことだってある」
「し、しぬ……」

 呟いて、子供がふるりと震えた。

「……怖がらせるつもりでもない。走ること自体は体に良いことだ。ただ、周りをよく見て、自分が走れそうかをよく考えて、その状況下で――ああいや……」

 そこまでを求めるような歳でもないか、と思い直して、赤井は一度口を噤み、少女の隣に鎮座するぬいぐるみの額を指先で弾いた。

「ともかく、両手にものを持ちながら走るな。どうなるかは分かっただろう」

 子供はどもりながらも、はい、と言って頷いた。
 ――その返事と首の動きは、見様見真似でただ形だけをなぞるものではない。
 少なくとも幾分かは、赤井の言いたいところを理解し、その上で承知の意を表していた。
 これまでもそうなのだ。子供は、平易でない言葉を使うと首を傾げはするものの、長くとも飽きずに最後まで聞き、既知の単語にはそれと分かるような反応を見せる。
 たどたどしく復唱するのは、その中でも要点となるワードだ。
 短い一言二言に過ぎないが、それは子供が自身にかけられる言葉を、ただの音の羅列でなく意味のまとまりを連ねた流れとして捉えているということを示している。その引き出しにない、恐らく子供にとって難解な語句でも、前後の文脈からある程度の推測を立ててすらいるようであった。そうでなければ、英語で話しかけられたときのように、ただ耳についただけのまるきり意味のない音だけを口にすることだろう。
 幼子との対話で必要なのは、相手に向き合っているのだという態度と共感や感嘆の言葉であって、知識の正確さや論理性はさほど重要ではないというのは、一般常識として持ち合わせてはいるものの――子供のそういう振る舞いや、どちらかといえば感情よりも事実を述べるほうが得意であるという自身の性質もあって、赤井はしばしば、程度の調節をし損ねていた。
 ともあれ、幼稚で考え足らずだという点では変わりないが、よくよく観察してみたところ、子供の頭の出来は、推定される年齢からしてみれば良い部類のようである。
 それに反して運動能力は平均以下と言っていい。如何せん鈍い。明らかに己の体を持て余し扱い慣れていない。面倒がなくていいと抱えて回っていたが、もう少し歩かせたほうがいいのかもしれない。
 散歩でも案の定子供は転んだ。そこまでは想定内だったが。

「あの女――、の人が、気になったのか。見たことがあるのか?」
「ま、まちがえた……」
「知っている人だと思った?」

 子供がちいさく頷く。

「誰だ」
「…………わ、わかん、ない……です……ご、ごめ、なさい……」

 そろりと赤井の顔色を伺い、惑うように口籠ったのは、決して答えるための言葉を探してのことではないだろう。答えるか否かを逡巡したのだ。――そうして結果、秘める方を選び取った。

「いや、いい……」

 凡庸な顔つきに所作。間近で見てくだらない話を聞けば、赤の他人であることは明白だった。
 遠目には似て見えただろうか。そうまで微かな痕跡を辿りたがるほど、焦がれているのか。



『――やはり別物ですね。あの場に訪れたのは同種の盗難車です。一部回収できない部品もありますが、形跡を辿るにほぼ間違いありません』
「カメラの方は?」
『細工はありませんでした。エリックは抽出からエンコードも送信も一人で行っていますし、映像に問題があったわけでもないようです』
「……となると、“これ”なわけだ」
『そうなるかと』
「ジョディのチームは?」
『相変わらず』
「引き続き頼む」
『了解』

 通話を切って端末を机に置き、その代わりにグラスを手にとって口へ運ぶ。
 夜も更けていた。子供は寝室でベッドに入ってはいるが、もぞもぞと身じろぐ気配と音からして、やはり眠ってはいないようだった。そろそろ行ってやるか、と、グラスに残った液体を飲み干す。琥珀色のそれは喉を灼くような刺激を齎しはするが、幾ら胃に収めたところで酩酊からは遠い。つまり、胸の隅に湧いた仄かな感傷は、アルコールが誘引したわけではないものだ。
 グラスをテーブルに戻し、通話中にも眺めていたファイルの後方、綴じられていない紙の束のうち、一枚を引き抜いた。
 慣れない手つきで描かれたことがありありと分かるボールペンの線。書き損じを塗りつぶしたと言ったほうがまだらしいだろう。
 これが己だとは、とうてい思えない。
 赤井の口元から、どことなく気の抜けた息が漏れた。――漏れるほどには、緩んでいたらしい。


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