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 公園にいる人はそれなりに多くて、各々ゆったりと歩いていたり、チェアに腰掛けてスマホを弄ったりおしゃべりをしていたり、ランニングや体操なんかをしている。中には長めのベンチに薄着で寝っ転がり、日光浴らしきことをしている人まで。エコ日サロだ。
 そんな中不意に目に止まったのは、柵の前に立って写真を撮っている人の姿。
 なかなか良い値段のしそうなカメラの眼差しの先には、やや開けたこちら側の陸地の少し先に、眩しい日差しにきらきら輝く水面があった。その上を、フェリーが白い飛沫をたてながら横切っている。

「うみ……」

 うっかり漏らしたわたしの一言に、秀一さんが足を止めた。

「いや、あれは川だ」

 真顔で訂正されてしまった。恥ずかしい。
 よくよく見てみればもっと遠くには、森のように生い茂る木々を突き破って伸び、立ち並ぶビルがいくつも見えるし、こちら側も向こう側も水面沿いの陸地が長く、彼我の距離だってさほどない。せいぜい湾といった風体だ。
 秀一さんは道の端、植木の切れ間がある部分に寄って、柵越しの景色がわたしに見えるよう、少し回って体の向きを変えてくれた。

「ハドソン川」
「あどそん」
「アディロンダック――北の、山がある方から流れてきている川でな」

 あっち、と言うように指さされたけれども、にょきりと立つビルばかりで、山っぽいものはさっぱり見えない。北という方角を教えるための動作らしい。

「やま?」
「ああ。ここから二百マイル以上離れたところ、あの川を伝って山を登っていった末には、湖がある。そこが所謂水源、川の水の出処だ」
「みずーみ、のみず」
「主にはな。×××××××××××××××と言う」
「れい……くら……」
「“雲の涙”」

 すごい、洒落た名前である。

「その山地で最も高いマーシー山の近く、スカイライト、レッドフィールドという山らの鞍部にあるが、それ自体はそう大きくもない。深さも大体三フィート程度で、夏になると沼のようにもなる、それこそ涙といった小さな湖だ。上の方の川はもっと細くて、幾つもある他の小さな川と合流することで結果的にこれほどの大きさになっているんだ。正確に言えば由来は雨水や雪解け水だな。降り注いだものが窪地に溜まり、あるいは山のうちに染み込み、それが溢れたり滲み出たりして流れてきている。だから――」

 ほへーっと聞いていたら、秀一さんは不意に、我に返ったように口を噤んだ。

「――分からんか」

 いやあの、なんとなくうすぼんやりは分かります。理科の授業実用編みたいな話だ。へぇボタンがあったら迷いなく十六連打を凌ぐ技巧を繰り出していたところである。先生なんか訳知り顔で頷いて丘陵地帯がどうとか褶曲山脈がどうとかいいたそうだよとそのもふもふの脇を持って秀一さんの方に向けたものの、ちんぷんかんぷんアピールにしか見えなかったらしい。
 どうやら、秀一さんはちょっぴり、そういう薀蓄めいたことを話し出すと止まらないところがある、のかもしれない。
 そういえばえふびーあいで、同僚さんたちに軽い調子で声を掛けられると素っ気無い返事をすることが多いけれど、真面目な顔で向き合っているときには、今よりもっと早口に、淀みなく滔々と話したりもしていた。
 同僚さんやジェイムズさんとは違って的確なコメントもリアクションも返せないわたしに、秀一さんは唸るような声をほんの小さく漏らしてから、

「……海に行ったことがあるのか?」

 と、話題を逸らすように言った。というか逸らしたのだろう。

「た、たぶん……」

 間違えるくらいである。行ったことは、あるに決まって――いる、はずだ。
 どこだったのか、とは、明確に思い出せない。
 人で溢れかえる夏の浜辺も、どこか寂しさを醸す冬の冷たい波も、わたしはそれを、自分のまなこで見て、その空気を感じたことがある、と思っていたけれど。
 今になって思い返してみると、それが本当だったと、自信をもって断言することが出来ない。きっとあの潮の香りも、髪を軋ませる風も、この幼い体は――、
 ――これ以上考えてはいけない。
 ええと、そうだ。

「あの……しゅーたん、も?」

 声を出す緊張を、先生の後頭部に顎を当ててもふもふで緩和しつつ聞いた。こうするとなんとなく先生が矢面に立ってくれている感が出て当社比五%喋りやすい気がする。
 秀一さんは、そろりと一度視線を外してから、不思議な間を置いて頷いた。

「…………まあ、あるにはある。近頃は遊びでは行かんが」

 それはつまり遊びで行っていた時期があるということだろうか。海パン姿で浮き輪を装着したりビーチバレーしたりする秀一さんなんて想像できない。

「……たのし?」
「ん? ああ……そうだな。それなりに」

 そう言って秀一さんが浮かべたのは、緩やかで薄くではあれど、紛れもない笑顔だ。過去を振り返って浸り、自然と湧き出たような、楽しげなもの。
 やっぱりこんな――というと失礼な気もするけれど、はしゃいで遊ぶことをしなさそうな人でも、そういうことをやっていた、それが楽しかった時期があるのだ。
 意外に思ってしまうのと同時に、なんだかちょっぴり、いいなあ、なんて、思ったりして。


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