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 いつもはとんとんと肩を叩くそれがなく、わたしを覚醒させたのは、扉越しの話し声だった。
 どうやら秀一さんはどこかに電話しているようだ。他に物音もせず静かなもので、耳をすませばその内容もそれなりに聞こえる。

「……そうは言うが、繋がることも充分有り得る」

 珍しく日本語だ。
 秀一さんはしばしばそうして電話を受けたりかけたりすることがあるけれど、大抵英語で、それが一体どんなものなのか分からないのである。

「きみの畑だろう?」

 相手は農家の知り合いさんだろうか。大豆とかキャベツとか……いやその畑じゃないか。餅は餅屋的な?

「――ああ、悪いが、頼んだ」

 話はほとんど終わりかけだったようで、秀一さんの声はそれっきり途切れた。
 壁越し扉越しというのもあるんだろうけれど、動き回るような物音がほとんどしない。一体何をしているんだろう。もしかして何もせずに寛いでいるんだろうか。そうだとすると出ていくのは申し訳ない気がする。ここのところ、わたしの面倒を見てばっかりで、秀一さんの一人の時間というのは確実に減ってしまっているはずだ。ちょっとの間でも、大人しくしておいた方が良いかも。
 しんと静まりきった中、悩みながらあったまった布団の中の空気を堪能してる間に、じわじわと瞼が降りていって、うっかり二度寝してしまった。


 再び瞼を開けたのはお昼だ。慌てて飛び起き、ベッドから降りるのに失敗してしまった。
 響いた落下音でやってきた秀一さんは、わたしを拾い上げるといつものように洗面台へ連れて行ってくれて、多分朝に予定していたのだろうトーストを作って食べさせてくれた。
 散らばってしまったパンくずを片付けた秀一さんが、そわそわするわたしに、どうしたと問いかけてくる。

「ね、ねぼう……」
「起きなければならん時間はなかった」

 どうやら今日は休みらしい。ちょっぴりホッとした。

「それにあそこでは我慢し通しだろう」

 そりゃたまに眠くはなるし、寝ちゃいけんという雰囲気もあるはある。けれど、なんだかんだ仕事風景を見るのは楽しく、みんなあれこれと構ってくれるので、我慢はしていても、言うほど苦じゃない。

「ぜ、ぜんぜん」
「……」

 ふるふると首を振るわたしを見て、秀一さんがほんの僅かに眉根を寄せた。
 それまでならそうかとさっくりスルーしていたようなやりとりなのに、昨日の帰りから、そんな反応が多い……ような気がする。
 わたしがお兄さんに対してキョドりまくったせいだろうか。頼れる仲間を目が死んでるだのとは言うに言えなくて飲み込んだけど、態度から滲み出ていたのかもしれない。わたしは嘘をつくのが下手すぎる。絶対変化系ではないな。
 秀一さんの考えは相変わらずぜんぜん読めないし、わたしの気のせいである可能性もだいぶ高い。
 秀一さんは、少しの間思案げにしてから、わたしの頭にぽんと手を乗せた。

「外に出る元気があるなら、また散歩に行こう」


 軽く身支度を終え、わたしと先生を抱いた秀一さんが向かったのは、地下鉄に乗ってしばらくのところ。これまでよりも建物の背が低めで、少し古い雰囲気の町並み、その中をまっすぐ歩いた先、四つ角に佇むものが、目的地らしかった。
 なにやら鉄橋といった感じの、人間二人分くらいありそうな太い橋脚の上に、これまた太く頑丈そうな桁が横たわっていて、それが一方はぶつりと途切れ、一方はぐっとどこかへ伸びている。高架道路、のように見えるけれど、その脚の間には、どう考えても歩行者向けの階段があって、高架部分まで登れという風に上に伸びていた。
 秀一さんはその階段を迷いなく登っていった。
 最後の一歩を登り終えて目に飛び込んできた景色は、下の無骨で素っ気ないものから一転、綺麗に整備された植木と板目のような道があって、まるで庭園のような趣き。
 少し首を回してみれば、おそらくあのぶつりと切れた桁の断面だろう、植木の途切れたところの向こうに、これまで頭上にあって圧迫感を齎していた建物たちをぐるりと見下ろせた。

「わ」

 思わず出た声に、秀一さんがわたしの顔を見て、口の端を僅かに上げる。

「ハイラインという」
「はいらいん」
「昔電車が通っていた道を公園に作り直しているんだ」

 そう言って、秀一さんはすたすたと歩き出した。
 公園だったのか。あまり横幅はなく、どちらかと言えば道がメインで、その両脇を草木で飾る、遊歩道といったものに見える。
 そんな風に思って眺めていたら、数人がすれ違える程度の道幅は、歩いている内に幅を変え、ぽつりぽつりと、床から生えたようなちょっぴり不思議な形のベンチが現れはじめ、草の背が低くなって柵から柵がいっぺんに視界に入るようになると、確かに昔鉄道だったというのも頷ける程の広さを見せた。道の外、建物の合間合間に、こちらの視界に入ることを考えて設置されているらしい、カラフルで大きな看板もあちこちに見える。周りが若干低めなだけであって、少し離れたところにはとんでもないサイズの高層ビルもあるので、見下ろすばかりではないのだけれど、やっぱり普段と視点が違って面白い。
 そして驚いたのが、進む先に、にょきりと佇むビル。
 なんと道の延長線上にも普通にビルが建っていて、この道路を避けるように、その身にぽっかりと穴を空けていたのだ。道路のまわりだけ、コンクリのような脚になっていて、幾分の高さを確保したのちにガラス張りの胴が乗っかっている。まるで高床式ナントカみたいである。
 そういうビルはいくつかあって、本当に道を避けているだけのようなものや、もしやこれは電車が停まるところだったのではという、ちょっぴりホームめいたところまであった。カフェのようなテーブルとチェアが並ぶそばに電車のレールがある姿はなんだか非日常的だ。きっと見る人が見れば大興奮だろう。先生はどうでも良さそうだけど。
 見慣れているからか、秀一さんも何の感慨もなさそうに、それまで通りのペースで通り過ぎる。うーん、少なくとも鉄オタや建築マニアではないらしい。


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