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 メアリーは、一口二口飲んで粗末なインスタントコーヒーを一頻り詰り終えると、今度はその矛先を赤井に向けた。

「それにしてもなんだこの家は。改修もない古臭いままの造りに、死角だらけの防犯カメラ、管制運転どころか平常時も怪しいエレベーター、単純な旧式の鍵一つ、管理の人間も見当たらない。セキュリティ観念の欠片もない、掘っ立て小屋と変わらん。苦学生でもあるまいに」
「そのうち越す」
「出来る限り早くしろ。ビュロウでもあのザマだ」

 むしろコーヒーなどは前座で、それこそが目的だったようだ。特段否定する点もない事実に赤井が黙っていると、返答を待つ暇もなく続ける。

「まあ、先日の件は丁度良かったじゃないか。警戒心は早めに身に着けておいて損はない。そういう危険があるかもしれない場所が存在するという事実を知った上であるかどうかというのは、危機への意識を大きく左右させる。恐怖というのは遠ざければ遠ざけるほど、却ってその身を無防備にし子羊たらしめるものさ。わざわざ自らを餌よろしく美味げに調理して膳に横たわってやるなど馬鹿のすることだ。正体を知り、捕らえて裡にて跪かせ、従え御していてこそ。――どこぞの坊やが言っていたな? “この世に安全な国などない”と」
「……それは身をもってして学んだ教訓か。ご教授頂けるとは有り難い」
「お前も身に沁みて分かっただろう。子どものそばにいる人間の重要性を」

 皮肉げに笑みを浮かべていたメアリーが、不意に眉をほんの少し垂れさせる。

「元々の育て親は当てにならんのだったな」
「それもご存知というわけだ」
「細く希薄な糸であれ、宮野家の遠縁だ」

 しらとして紡がれたものではあったが、その言葉には赤井が受け取った以上に熱を持っていたのかもしれない。赤井と似た、もとい赤井にそれを授けたメアリーの瞳は、僅かに色を昏くしたように見えた。
 資料に添えられた写真でしか顔を知らない死した親戚など、赤井とってしてみれば他人と変わりなく、肉体が残っていない以上、単なる情報の一群でしかないとさえ言える。情報を元に生前へ思いを馳せたとしても、何の感慨も湧きそうにない。
 メアリーは表現の乏しさから誤解されやすいが、赤井よりも遥かに情深い女である。その瞳に適した言葉は捻り出してやれそうにないと、赤井は口を噤んだ。己を産み育んだ肉親の、心のやわい部分を無闇矢鱈に踏み荒らすことは憚られるという意識は、赤井だとてありはする。少なくともあえてやろうという気にはならない。

 何の気なしに見遣れば、子供は大人しくジュースを啜っていた。その手元は以前に比べそれなりに危うげなくなっている。握力を補助するかのように、子供の膝の上でジュースのパック置きにされたぬいぐるみのお陰だろう。
 赤井には、己の子以外に、同様の幼児と接触する機会が、過去にも現在にも殆ど皆無と言っていいほどなかった。一つの空間に居合わせることはあっただろうが、相手をしていたのは赤井以外であり、赤井は積極的にも消極的にも関わろうとしなかったのだ。得手ではないという自覚も、向こうからしてみても懐きたくなるような人間でもないだろうという自覚もあったし、種族や齢を問わず、赤井にとって知能が著しく低いと判じられる生き物の相手は面倒で、極力避けたいという思いも、実のところあった。そのため、自ら手を出すことは勿論なく、必要に迫られかければそういう行為を好みそうな、あるいは幼児の方が好みそうな類の人間を見繕って充てがっていたのである。周囲も赤井のそういった性質を察して配慮している節が大いにあった。
 ゆえに、あのくらいの年頃の幼児の発達について赤井が持つ知識は、一般的に伝聞や書物から得られるようなものばかりだ。
 それでも、子供の学習能力は平均よりも随分高いように感じられる。絵本の内容にしろ、世間話にしろ、注意にしろ、赤井を含めた大人達が口にした言葉をどれもよく覚えていて、発した人間やその声色や場面とも結びつけており、意味まで理解が及んでいれば自らのものとした上行動にまで反映させている様子が見て取れるのだ。
 同僚などはよく子供の賢さを赤井譲りだと言うが、赤井はそれに今一つ実感が湧かなかった。己の幼少時、しかも子供ほどの年齢の記憶など、流石に赤井でも明瞭にはなく朧げであるし、まだ幼さばかりが際立つ子供の行いが己の性質に繋がるようには思えない。
 赤井としては――“彼女”の、と言われたほうが、よほどしっくりとくる。
 “彼女”の影が濃すぎるせいか、それとも赤井が、意識的にも無意識的にも求めてしまうから、そう思え、そう感じるのか。

 ともあれ、懸念に値する要素ではない。むしろ、好ましいとも言える。
 赤井の視線に気づいた子供が、赤井の方を向き、照れたように瞳をうろうろと彷徨わせてからそろそろと合わせ、ふっくらとした柔らかな頬を緩めてはにかんだ。

「……その顔を、あの時真純にしてやればよかったものを」

 メアリーの声は赤井に掛けられたものだった。
 どことなく渋さのある、しかし怒気はなく落ち着いた、呆れや笑みをも含むような、はっきりとしない言い様だ。表情からも、その動きの少なさに慣れた赤井でもってしても図りづらい。
 ため息を一つ吐き、足を組み直すと、メアリーは皮肉げな笑みに切り替えて言い放った。

「実費でナニーをしてやる」

 これ以上の人材もいないはずだ、というメアリーの言葉は全く異論の出せないものだ。
 赤井がもっと未熟だった頃であるとはいえ、体格差のある鍛えた男を相手に互角に――いや、致命傷を避けた動きからしてむしろ優位に、指導的に――相手取る体術は、その肢体を見るに最低限の老いによる衰えのみを経て今尚保持されており、下手な同僚よりもよっぽど腕が立つだろうし、その頭脳は、時に例の“探偵”を凌ぐほどの働きをしたとも言い、赤井の脳を編み上げる鎖を分けたところからしても、今でも何やら噛んでいるらしい生業からしても、その他の能力を含め折り紙付きと評せる部類だろう。育児の実績に関しては言わずもがなだ。

「いい加減、母親を厭うような稚気も、もう持ち合わせがないだろう――秀一」

 あたかもはじめには存在していたかのような口ぶりは正確とは言えないものではあったが、わざわざ訂するほどのことでもないと、赤井は静かに頷いた。
 視界の端の子供は、再び絵本を手に取って、赤井に見せた笑みの余韻を引きずるかのように、顔を綻ばせていた。


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