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「どうせ聞いてはいたんだろう。でなくばこの時間にここには来れまい」
「多少の手は回すさ、また要らぬ苦労をしないように。……しかし、時間のズレがひどいな。奴も老いたか」
「ファウンテンオブユースを啜った人間と比べるならな」

 赤井が小さく溜息を吐いて玄関扉を開くと、女はさも当然といった顔つきで躊躇なく中へ足を踏み入れた。
 腕の中の子供は、そんな女と赤井とを交互に見遣って、目を白黒させていた。女へやる視線が気づかれるのを恐れるような控えめなものであることと、先程までぬいぐるみを抱くのに使っていた手で赤井のジャケットを握っていることから察するに、女への怯えや警戒心があるらしい。もしかすると引っかかりはしたのかもしれないが、顔立ちや物言いからのみでは判断し切ることはできなかったようだ。
 習慣と化した帰宅後の流れとして手洗いをさせソファに座らせたが、子供は珍しくソファから降りて荷物を整理する赤井に近づき、そのさまを眺める女の視線から隠れるようにして赤井の周囲をうろちょろとしていた。


「この人は俺の母親だ。いわゆる、あー、……“ママ”」

 一段落して、おまえから言え、と無音で紡いだ女の唇の動きを読めてしまった赤井がそう切り出すと、子供は分かりやすく固まった。
 零れ落ちそうなほど見開いた目に、締め忘れたかのような半端な形で動きを止めた唇。驚愕の手本じみた表情である。どことなく笑いを誘われるそれにほんの少し釣られかけた赤井だが、悟らせないよう静かに抑え込んだ。
 女が子供に目線を合わせるよう膝を付き顔を覗き込むと、流石にその状態では憚られたのか、子供は目を逸らす事も後ずさる事もしなかったが、体全体からそうしたいという心情が滲んでいる。ぬいぐるみを強く抱くことで代替しているようである。

「メアリーだ。君のナナ――おばあちゃんになると言えばいいか」
「……」

 わたわたと、縺れながらなんとか聞き取れる程度の声量で、子供が自分の名前を告げる。それが精一杯だったようで、以降は口に出すか出すまいか悩んで、どころか何を言えばいいのか分からない様子で、いくらかもごもごとしただけで何の言葉も発しなかった。
 女――メアリーは子供の様子に僅かに眉間を緩めた。

「どう呼んでくれてもいいぞ。ナンでも、グラニーでも、ばあばでも」

 “ばあば”だのという、子供の緊張を解こうというメアリーなりの配慮らしきものは不発に終わったようである。赤井には意図が推察できたが、子供はてんで読めなかったに違いない。“そういうこと”がある女だと、赤井は知っている。本人としては、感情表現豊かなつもりであるらしいが。
 うまく答えられない子供に、彼女なりの軽い笑みを見せた後、メアリーは表情を戻し、赤井に向かって口を開いた。

「お前と足して割りたい子だな。英語は分からないんだったか?」
「簡単な単語以外は」
「……あの」

 しらとした赤井の返答の後に響いたのは、メアリーではなく幼い子供の声だった。

「あ、えと……お、おはなし、するなら……わたし、むこ、いる」

 子供はおどおどとして寝室を指さした。
 ――メアリーが言語を切り替えたからだろう。子供は大人、特に赤井が英語を喋る時は、内容を子供に理解させるつもりがない、あるいはそれを避けてのことであるという風に学習しているらしい。間違ってはいないどころか殆どその通りではあるものの、子供の微かに寂しげな表情からするに、あまりはっきりと全面的に肯定はしない方が良さそうだ、と赤井は判断した。

「……悪いな。だが場所はこっちでいい」

 抱き上げて移動しソファに座らせると、子供は頷いて身じろぎ深く腰掛けた。ちゃんと大人しくここにいる、のポーズであるらしい。
 絵本を渡せば、子供の視線はそれに釘付けになった。要らぬ詮索をしない外野であると示す行動でもあるだろうが、純粋に意識を持っていかれているからでもある。
 子供の入院中に赤井の同僚が買ってきた、魚が主人公だというその絵本が、近頃気に入っているらしい。キラキラと光るように加工されている一部の鱗をじっと見つめては、本の角度を変えて煌めかせ、しばしば指先でなぞっている。
 その様子を視界の端に捉えながら、赤井はメアリーと視線を交わした。メアリーは、全くもって遠慮する素振りもなく、勝手にダイニングチェアに座り、腕も足も組んで寛いだ姿勢を見せている。それから向かいに座ろうとした赤井を視線で止めた。

「客人にやることがあるだろう」
「客?」
「私はここの住人ではないし、敵意も害意も持たず、お前は私を招き入れた」
「招いた覚えはないな」
「お前は私が入るのを拒んでいない、良しとした。実質変わらん」

 赤井の漏らした溜息に、メアリーが愉快そうに口角をあげる。

「ほら」
「……お久しぶりです。遠路遥々ご苦労様です母上」
「そういうことは最初に言え。言うにしてももっと情感を出せ。なんだその棒読みは。お前はそんな大根でも立たせておいたほうがマシなほどの演技力で出廷しているのか? ――茶だ、馬鹿者」

 ずいぶんな言い様の上紅茶がないことを詰られもしたが、赤井は特段腹立てることもなく、心持ち仏頂面ながらも二人分のコーヒーを淹れてダイニングテーブルにカップを置き、ついでに子供へジュースを渡した。
 己もそれなりに丸くなったものだと、赤井の脳裏に、そういった感慨じみた思考が過りもした。


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