118

 もらったジュースをひとりでこぼさず飲めた達成感で先生にドヤッとしていたところをちょうど秀一さんに目撃されて、ちょっぴり恥ずかしくなりつつ、誤魔化し笑いしながら絵本を開き紙面をホワーッと眺める。
 輝く鱗を持った、Rainbow Fishというお魚の話で、箔というのかホロ加工というのか、正確にどうなっているのかはわからないけれど、その鱗の部分だけきらきらしたシールのようなものが貼られている風なのだ。見ているだけで楽しい絵本である。
 話の内容はというと、綺麗な鱗を持って生まれたちょっと気取ったれいんぼふぃっしゅくんが、他のお魚にきらきら鱗を分けてくれと言われて拒んだところ、そのお魚の友達たちの誰にも相手をしてもらえなくなってしまい、孤独に耐えかねて鱗を配って回って仲良くなり、分け与える楽しさを知る、みたいなものだ。個人的にはなんともいえなかったり。
 れいんぼふぃっしゅくんも誘いを無視したり断るのに厳しい態度をとったりしていたので遠巻きにされるのは仕方ないかもしれないけれど、鱗だってれいんぼふぃっしゅくんが生まれ持った、お父さんお母さんから授かった大事な体の一部のはずなのに、沢山あるなら分けてくれても良いはずだとか、くれたから仲良くしてあげようというのはどうなんだろう。誰かに褒めてもらえないとなんの価値もないと嘆くのも、ちょっともったいない気がする。はじめは自分自身で気に入って誇らしげにしていたのに。
 トゲのある振る舞いを、もっと別の方法で窘められるタコさんやらイカさんやらだとか、そのままの綺麗なれいんぼふぃっしゅくんと、もののやり取りなしにお友達になれるようなお魚さんだとか、探せばいたりしなかったんだろうか。いやみんな最終的に満足そうだったからお話としてはハッピーエンドなのだろうけども。うーん、人間関係って難しい。いやお魚関係って難しい。これで感想文の宿題出来ちゃいそう。
 最近しょっちゅう読んでいるのはほとんど見た目楽しさで、別の理由もほんのちょっぴりあったりする。この本をもらったのは入院中なのに、どこかもっと前にも読んだことがある気がするのだ。読むたび見るたび、それがいつか、どこか、思い出せそうな感じがするものの掴めない。ただのデジャブであるという可能性に5000ペリカ。

 そんなこんなをくるくる考えながらゆっくり読んでいたら、三周目突入前に、BGMのように流れていた秀一さんと秀一さんのママ……さんの声が途切れた。お話は終わったらしい。
 立ち上がった秀一さんのママさんはこちらにすたすたと近寄ってきて、わたしのそばでしゃがみこんだ。ワインレッド、というのか、大人っぽく落ち着いた色合いの口紅が塗られた、綺麗な形の唇が動く。

「ありす」

 ぴしっとした口調で言われた名前に、びっくりしてへあっと変な声が出てしまった。

「と呼んでいい?」
「あっ、あい………」
「時間をくれてありがとう」

 アレッ? と思って、どうしてそう思ったのか理由を確かめかけたところで――思考を遮るようにチャイムが鳴り響いた。
 反射的にか、素早く首を回して振り返ったママさんが、一拍置いてふうと小さく息を漏らす。

「……結局好奇心には抗えなんだか、それとも兄恋しさが勝ったか」
「前者だろう」

 ママさんの言葉にさらりとそう言い、秀一さんが玄関の方へ歩いていく。
 ダイニングから廊下、そして玄関。たかだか数メートル、ちょっとの距離なのに、その背中が遠ざかるさまに、なんだかそわそわする。
 首を戻し再度わたしに向けたママさんの視線を受けることが、途端に気まずく感じてしまって、うまく目を合わせられなくなる。秀一さんよりほんの少し薄く見える、しかし血の繋がりがあると言われればそのはずだと頷ける、虹色の魚のひれよりもっと綺麗な、きらきらした緑色の瞳。
 つい、勢いで、ソファから飛び降りてしまった。
 降りてしまうとママさんとの距離が先程よりぐっと近くなって、そこで止まっているのも、またよじ登って座りなおすのも変な気がして、もういてもたってもいられなくなる。あの、えっと、ともごもご蚊の鳴くような声は出たけれど、言葉が見つからずに何も言えずじまい。そろそろとママさんを迂回し、秀一さんが消えていった廊下へと駆けた。

「秀兄!」

 ――ら、玄関口で、秀一さんが誰かに抱きつかれていた。
 秀一さんより背が低く、華奢で、顔立ちも可愛らしい、革ジャンにジーンズを纏った、癖っ毛の男の人。

「久しぶり! メール、何通も送ったのにちっとも返事くれないじゃないか! ちゃんと読んでくれた? 完了マークはついてたし、届いてはいるだろ? だから既読機能付きのアプリ入れてくれって――」

 弾む声で楽しげに秀一さんに話しかけていた男の人が、勢いを失って廊下で立ち尽くすわたしに気づき、言葉を途切れさせてふっと笑みを消す。
 そして、秀一さんから体を離し、こちらへまっすぐずんずんとやってきたかと思うと、わたしの目の前でがばりと足を曲げて腰を下ろした。

「君が秀兄のコ?」
「えっ、しゅ……に?」
「この人ボクの兄貴。だから秀兄」
「あっ、あわ……」
「……ふーん……」

 じっと、見つめられて、見つめ続けられて、体が自然にたじろぐ。
 一体全体どこにそんなにじっくり見るポイントがあるんだろうか。まだ晩ご飯前なのでお弁当つけてもいないはずだし、もしお昼の分がついていたらジョディさんか零くんさんか秀一さんか誰かしらに早々指摘されいてるはずだし、わたしの顔面にはきらきらの鱗もないはずである。

「……」
「……」

 もしかしてこれがウワサのガントバシなる格闘技の一種なのだろうか。既にゴングは鳴っているのだろうか。男の人がいわゆるヤンキー座りのような体勢であるせいか、だんだん背景がコンビニに見えてきた。もしやリアリティマーブルの使い手ですか?

「…………」
「…………」

 わ、わたしおかねもってないです。出せるものはチョコと先生しかないです。ほんとです。ジャンプしても先生がぴょんぴょん鳴るだけです。
 脳内でやった必死の訴えは当たり前ながら全て届かず、これはやむなし助けて秀一さんえもんと縋る決心をする。
 その瞬間、救いの手をにゅっと差し出してきたのは、期待とは違う響きのよい声だ。

「真純、帰るぞ」
「えー! もう? ボク来たばっかりなのに」
「今日はここまで。長居はせんと言ったはずだ。それを先にあちらへ行くと飛び出していったのはお前だろう」

 ママさんに、今までの真顔は幻だったのではと思うほど分かりやすく頬を膨らませて不満げな表情をした男の人は、けれどあっさりと立ち上がってママさんに追従して、軽やかな足取りで玄関まで逆戻りしていった。

「またな、秀兄! ――それから、君も」

 なんて手を振りながら。


 back 

人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -