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 人を殺すことを、こともなげに口にする。
 下手くそな落書きのモチーフ当てをするのと変わらない声色で、海や川の仕組みを教えるのと、絵本を読むのと変わらない調子で、“それ”をしてきたと、これからもするのだと口にする。それが正しいことであるとも、悪いことだとも思わない。正しさや決まりを必ずしも大事にはしないと、それだけでなく、みんな捨ててしまえるものなのだと。
 ふつうであれば、非難して、軽蔑するようなことなのかもしれない。理解できないと、よくないと憤慨するようなことなのかも。嫌悪を抱いて、怖がって、怯えて。まっとうな、きれいな人間としては、そうしなきゃならないのかもしれない。秀一さんが言うように、体が変われば、時が経てばそうなるものなのかも。少なくとも今だって、わたしは自分で自分をそうだと言うことはできない。わたしはそういう風にはなれない。
 でも。
 ただいきなり告げられたものを咀嚼するのに手間取ったというだけで、忌避感や不快感は全くと言っていいほどなかった。
 自分でも不思議なくらい自然に胸に落ちたのだ。“ママ”と同じくらい。体がそれを知っているように、それを求めているように、肯定するように。
 ――そしてなにより、わたしに湧いたのは、“うれしさ”だ。
 その感情は、結んでいた唇をさっと解いて、その扉の前に立っていた言葉の背をとんと押してしまった。
 “呼べるかな、覚えていて”――やさしい、おんなのひとの声も、手を添えるよう脳裏で響く。


「ぱぱ」


 どんなに小さくても、か細くても、秀一さんは捉えてくれる。拾ってくれる。現に、わたしの声が聞き取れたという素振りはあった。けれど。

「――」

 目を見開いて、口も少し開いて。
 秀一さんは、わたしが見ているものが確かなら、言葉を失ったようにしていた。

「て、えと……よんで、いい……?」

 慌てて続ければ、ハッとしたように表情を引き締めて、

「…………無論だ」

 そう、頷いた。

 この人を“お父さん”の席には座らせられない。それでいいと言った。“パパ”と呼びたい、それでもいいと言ってくれたのだ。

「あのね、あの……」

 選ぶための迷いや葛藤はなかった。はじめこの体に違和感を抱いていた自分がどんなものだったか、もう思い出せないから。別の何処か、帰りたくなる場所があったのかもしれないとしても、恋しがり方が分からなくなってしまった。ただ、図々しい、浅ましい自分への恥ずかしさが、気持ちを言葉にしようするのを躊躇わせていた。
 大事な何かを忘れて、それに背を向けて縋ろうとする自分を、都合よく飛びつこうとする自分を、詰り非難する自分がいる。それに反論出来るようなところがなくて、やましさに苛まれて、ずっと勇気が出なかった。
 頭をか、肩をか、きっとみっともない顔になっているわたしのため、撫でようとしてくれたのだろう。伸ばされた大きな手を、はしりと掴んだ。
 多分今を逃せば、また言えなくなる。

「あの……わたし、いちばん、じゃなくて、いい」

 ――わたしのために生きてくれなくてもいい。
 わたしのために役割を請け負ってくれなくてもいい。
 望みを叶えろなんて言わない。人生を捧げろなんて言わない。
 糧にならなくても、生きがいにならなくてもいい。
 ただそっと、そばに置いて欲しい。そばにいるのを許して欲しい。
 ひとりにしないでくれたら、ほんのちょっと、わたしに気持ちを割いてくれたら、それで。
 わたしに、ちょっぴりの想いをください。

 詰まり吃り、たどたどしく紡ぐ、音になると自分で思うよりもずっとずっと拙くなってしまう言葉を、秀一さんはとても真剣な顔つきで聞いていた。
 どきどきというよりもばくばくと、暴れまわるような鼓動を押して必死に絞り出したわりには、喋れたほうだと思う。秀一さんに対して、むしろ誰か他の人に対して、こんなに喋ったのは初めてじゃないだろうか。
 そうしてわたしが言葉を切って次を発さず、それに対する返事を求めているのだと分かると、秀一さんはゆっくりと口を開いた。

「……きみが、そういう考え方が性に合っていて、そういう扱いの方が気が楽だというのならば構わんが――違うのならやめろ。わざわざ自分を甚振ってみせる必要はない。そんなことをせずとも、俺はきみに、俺の思うだけの事をする。情を盾に支配するつもりはないし、きみが無理をしなくてはならないような生き方を求めはしない。少なくとも俺は、見返りや報酬を求めるのならばそう言って示す。体裁を繕いに愛情を注ぐふりなどはしない」
「あ……あい、じょ」

 あいじょう? AIJO? あい……愛?
 なんだかその言葉が秀一さんの口から出たことが信じられなくて、びっくりして頭の中がそれでいっぱいになってしまった。

「あいじょ、わ……わたしに?」
「そう、きみにだ。ありす」

 大きな手が、もう一方に掴まるわたしの両手を、そっと包んだ。
 それから告げられた言葉に、ぽんと頭が爆発するような心地になって、なんだか今までぐるぐると考えていたことがすべて吹っ飛んでしまった。


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