112

 無事何事もなく退院して、秀一さんの家へと戻ることになった。
 たったの数日だというのに久しぶりに、しかもなんだか懐かしいとまで感じてしまうのだから、人間っていきものは不思議である。下ろされて廊下を歩き、その先の部屋の中を見回してみて、変わらない様子にちょっとホッとして。

「……た、ただいま……」

 そろそろっと言ってみたら、秀一さんは

「ああ、おかえり」

 と、穏やかな声で返してくれた。
 秀一さんとふたり。ちやほやしてくれるお医者さんも看護師さんも、賑やかにお見舞いに来てくれるお兄さんお姉さんたちもいないけれど、なにより落ち着く気がする。
 病院のものよりずっと嗅ぎ慣れた匂いの布団に包まれ、包帯のとれたふわふわ先生を抱っこして、秀一さんと並んで横になれば、ぐるぐると意味のない考え事をすることもなく、あっという間に意識は飛んでいってしまった。ここ数日中、いちばん良い眠りだった。

 そうして目覚めた翌朝。秀一さんがとんとんと肩を叩いて起こしに来たので、今日も今日とてお仕事らしい。
 洗面に、朝ごはんに、歯磨きに、着替え。流れはまるで何もなかったかのように変わらないけれど、その一つ一つの動作での秀一さんの声色や手つきは、前よりもほんのすこし、優しく丁寧になっているように感じる。
 言葉を借りるならば、アイジョウ、というのを、秀一さんが示してくれているからかもしれないし、それをわたしに注いでくれるのだと知ったから、勝手にそう感じるのかもしれない。
 ……な、なんだかむず痒くって、そわそわする。わたしが都合よく取っているだけなのでは、なんてまだ思ってしまうところもある。でも、本当のことなのだ。秀一さんは確かにそう言った。はず。はず……。照れくさいし、ちょっぴり恥ずかしいけれど、とても嬉しい。
 もぞもぞして、意味もなく頬が緩みかけるのを、えいっと引き締める。そのさまもバッチリ見られてしまったわけだったけれど、秀一さんは毎度のごとく何も言わずにわたしの頭を撫でた。
 その手付きも、わたしを見下ろす眼差しも、柔らかかった、と思う。


 えふびーあいに着くと、先にいた同僚さんたちがみんな、こちらに気づいてわっと寄ってきて集まり、秀一さんを、というか今回はたぶん正真正銘、秀一さんに抱かれたわたしを囲うような形になった。
 挨拶からはじまり、みんな口々に、「無事でよかった」「心配した」と、わたしに声をかけてくれる。同じように声をかけられ、更にはもふもふと撫でられて、先生も満更でもなさそうである。

 ――そのさなか。

 ふいに伸びてきた、少し筋張った、おおきな掌。
 それが迫ってくるのを認識した瞬間――視界が真っ暗になって、体が揺れた。

「――」


「ありす」

 突然のことに混乱しかけた頭を、わけもわからず湧きかけた焦燥を、そっと鎮めて拭ってくれたのは、静かな声と、肩にじわりと移ってきた温かさだ。
 目を開いて、体の力を抜いて、秀一さんの顔を見たところで、自分が目を閉じ、体を強張らせていたことに気づく。
 振り返ってみれば、さっきまですぐそばにいた人たちと距離がある。体の揺れは、秀一さんが動いたからか。
 正面には、半端に手を挙げたまま、困ったように眉を下げる、同僚のお兄さん。さっきの手を伸ばしたのはお兄さんだ。わたしは、その手に対して、ああした。
 つまり、はたから見たら嫌がっているようにとれることをしてしまったのだ。

「あ、あの、ごめ……ごめ、なさい」
「いや、俺が悪かったよ。つい、いつもの調子で」

 お兄さんの言うとおり、わたしに対してはないけれど、先生を触っていたことは何度もある。今だってわたしに向かって伸ばしたわけじゃない。なにより、ごはんを一緒に食べたこともあるし、お菓子をくれたこともあって、お見舞いにも来てくれた人で、全然そんなつもりはなかったのに。
 でも、その手を引っ込める所作にほんのちょっぴり安堵してしまっている自分がいて、それこそが嫌になってしまう。何もされていない、むしろ良くしてもらってばかりのくせに、ものすごく失礼なことだ。
 必死で謝って、お兄さんも許してはくれたものの、やってしまったことはなかったことにはならないし、思ってしまったという事実は自分の中から消えない。

 そういう、自己嫌悪と、罪悪感と、困惑と。ほかにも判然としない、苦味のある気持ちを整理できないまま引きずっていたせいかもしれない。

「赤井君」

 みんなが仕事をし始めてしばらく、またフロアに顔を出したジェイムズさんに呼ばれて秀一さんが席を立った時。
 咄嗟にジャケットの裾を引っ掴んでしまって、

「あ、あの……ぱぱ、いっちゃう……?」

 ――挙げ句の果にそんなことを言ってしまった。
 仕事なら当たり前で、これまでそうしてきたのに、今更何を言ってるんだろう。
 我ながら猛烈に恥ずかしくなって顔があつくなる。きっと赤くなっているだろうと思うとますますその感覚は強まった。
 秀一さんはそんなわたしを見下ろしてぱちりと瞬き、その視線から逃れるように俯いたわたしの視界に入るためかしゃがみこんで、顔を覗き込むように、緩めた頬を見せるようにして言った。

「……いいや、一緒に行こう。誘おうと思っていたところだ」

 抱き上げられて連れられた会議室は、もちろんわたしが必要なところなど一ミリもないオトナの仕事の場だ。
 わたしがしたことといえば、というかさせてもらえたことといえば、大きな机を囲みずらりと並ぶ同僚さんたちのいちばん端っこ、秀一さんの隣にひっそりと座わらせてもらって、壁に取り付けられたモニターに映される地図や写真やどこかのホームページのような画面を眺めたり、飛び交うさっぱり分からない英語をぼんやり聞きながら、ただひたすらじっと大人しくしているだけである。使わない間差し出していてくれる、秀一さんの手を握って。

 わたし一体どうしたんでしょう先生、と聞いてみたものの、先生は曖昧に言葉を濁すだけだった。



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