110

 秀一さんがやってきたのは、零くんさんが帰っていってから少し経った後だった。
 すっと静かに入ってきて、零くんさんがやったように、ベッド横の椅子に座る。そして、わたしの顔をちらりと見て、

「……ここでは眠りづらいか」

 と言った。……や、やっぱりエスパー? スプーン曲げれる? 秀一さんに壺を売られたらホイホイ買ってしまうかもしれない。
 たしかに、夜は布団を被って丸くなってはいたけれど、なかなか寝れずにごろごろしているばかりだったのだ。多分、朝になれば転げ落ちている事多々だったにせよ、いつも眠るまでは先生を抱いていたし、何だかんだとずっと秀一さんと一緒に寝ていたから、だと思う。
 取り繕って見栄を張ったところでどうしようもないことだし、秀一さんも分かっていそうだから、素直に頷いた。

「さ、さみし……のかも……」
「……そうか」

 秀一さんは、僅かに眉を下げて、わたしの頭をいつもより軽く、そっと触れる程度に撫でた。

「だが、人間の体というのはつくりが複雑で壊れやすいんだ。特に頭の中は、小さなケガが大変なことに繋がりやすいし、何かあっても気づけずに、いつの間にかひどくなっていたりする。だからそういうものが無いかをしっかりと検査した方がいい。終わるまでもう少し我慢してくれ」
「うん、わ、わかた……」

 まだ、秀一さんに立ち上がる気配はない。
 昨日なんかは座りもせず、やってきて数分もしないうちに仕事があるととんぼ返りしてしまったのである。もしやまたと思ったけれど、今日はどうやら、ちょっぴり時間に余裕があるらしい。

「あの……」

 懸命に振り絞ったつもりの声だけれど、耳に届いたのは自分でもびっくりするほど、なんともか細いものだった。
 モスキートなボイスでもちゃんとキャッチしてくれたらしい秀一さんが、先を促すよう、なんだ、と返してくれる。

「あの、はなし……ほんと?」
「“どの”話だ?」
「え、えと」

 わたしが口にしていいものか、少し悩んだけれど、他に呼び方を知らないし、思いつかない。

「まま」

 ところが出した声は予想以上に馴染んで、ストンと腑に落ちるような感触までした気がするほどだった。まま――そう、ママ。

「……あの男が言っていたことは真実かと聞きたいのか」

 秀一さんの静かな声が問う。
 びくっと、つい反射で跳ねてしまったわたしの肩を、秀一さんは宥めるように撫でた。

「俺が彼女と関係を持ったことが、彼女の立場を揺らがせ、彼女をより死に近づけたというのは事実だ。危険な状況にあると知り、命を救おうと思えば出来ただろう。だが積極的に守ろうと手回しや働きかけはしなかった。見殺しにした、という表現はあながち間違いではないし、彼女や彼女の周囲の人間にとっては、そうとしか言えない態度と行動だったかもしれないな」

 ふと、秀一さんはわたしに触れていた手をさっと引き、何かを考えるように、足を組んで、その上に軽く片肘をついた。
 ちらりと視線をよそ向けたかと思うと、またわたしに戻してくる。

「俺はそういう、結果としてそうなったというものだけではなく、直接人を殺してもいる。否応なしじゃない、自分の“殺す”という意志でもってだ。そして、これから先も同様のことをしていく。それが俺の仕事であり、俺はその仕事をするということを自分で選んだ」
「そ、それ……て」
「俺は、FBIにおいてスナイパーという役目を担っている」
「……すないぱー」

 その言葉は、さすがにわたしでも知っている。

「遠くから銃で人を撃つ――殺す仕事だ」

 前にお兄さんが言っていた言葉を思い出した。
 “シルバーブレット”、悪魔や魔女を撃ち殺せる“とっておき”――。

「……、……しゅーたん」

 久々に、ちゃんと呼べた気がする。
 いや、相変わらず舌が回らずに間抜けな響きにはなってしまったけれど、ちゃんと、呼ぼうと思って、最後の一音まで声に出せた。
 出したはいいものの、どんな言葉を選べばいいのか、どう言えばいいのか困る。自分でも、具体的にどんな事を求めているのかはっきりと分からないまま呼びかけだけしてしまった。
 それでも、そんなことはわたしの様子から伺えていそうでも、秀一さんはじっと待つ。やっぱり、あれが例外だったのだ。常とは違うことをさせてしまうようなことを、わたしがしてしまっただけ。

「しゅーたんは、なに、かんがえてる?」

 そして秀一さんは、下手くそで要領を得ない問いに、じっくり考えるように黙り込んだ。
 一拍、二拍。
 なんだか不思議と、その沈黙に焦燥は湧かなかった。

「ありすには向かない話し方になるだろうが――“俺の言葉”が聞きたいんだろう」

 そろそろと頷けば、小さく頷き返される。
 そうだな、と前置いて、

「最終的には信仰を得た思想が正しい」

 ぱちりと瞬いてから、秀一さんはそう言った。

「人間には生きたいという本能に根付いた欲求がある。それを求めるがゆえに、僅かでも生きながらえることに繋がる行動を取ろうとする。人間に限らず、生き物全てに言えることだな。生物の目的は存続だ。生き残り繁殖する。種を絶やさない。そのために人間が取ったのが、群れを作り、組する各々が持つ力を供出することで、一個体ではどうしても克服できない不全不足を補い合い、全体としての生存率と強さを高めるという戦略だ。集団の秩序を乱す事柄は種全体の存亡に関わる問題になりかねないから、自然と構成する個体どれもが集団に不利益を齎す存在を厭うようになる。狡や怠惰、加害、仲間殺し、特に脅威となるのがそれによって変じたモラルの伝播だ。集団を維持し、集団でいることの恩恵を受け続けるためには、共感協力することは勿論、集団を崩壊させかねない個体の排除と淘汰も不可欠になる。――死にたくないと思うのは誰でもそうだ。生物として真っ当に、殺されたくはない、そのリスクを減らしたいと願う。そうなるべき背景があって、そこに組み込まれ馴染んだ人間が大多数いるから、今現在のこの世界では殺人は悪だし、自他の命を救うため、社会を脅かす者を排除するために戦った者は称賛される。暴力でもって制したとしてもだ。本心からのことでなくとも、腹のうちに謀があろうとも、他の大多数を納得させられさえすれば、彼らの信仰を集められさえすれば、そういうことになる。所謂正義とやらに」
「……せいぎ」

 正義がどういうものか、なんて考えたこともなかった。ただぼんやりと、してはいけないと教えられたことが、皆がそう言っていることがあって、それを守ることが正しくて、それを破る人が正しくない。そう思っていた。
 わたしの表情があからさまにちんぷんと言わんばかりであったのか、秀一さんが軽くくすりと笑う。
 その笑いは、なんだかただおかしさだけで漏れたものでは無いような気がした。乾いた感じ、というか、どことなく冷たいような。

「今はよく分からずとも、いずれきみの脳が充分に成熟して、その造りが俺のものと大きく差異を示した場合、きみにとって俺の言い分は理解し難いものに、行動は許し難いものに、存在は嫌悪を抱くものになるのかもしれないな。――正直に言って、俺は“そこ”に正邪の念を持ってはいない。正義とやらのために殉ずるつもりはない。仕事として、俺の所属する集団であるFBIにはそれを許さないという意志と規則があるから、社会倫理的に良くない行いであり裁かれるべきだとされているから、世間一般で言う悪人を咎め、捕らえて法の元へと引きずり出し、それが不可能であれば撃ち殺す。だが、己の優先すべきものが脅かされればその規則に反すし、この手に錠や、首に縄がかけられるようなことさえするだろう。仕事をこなすことは、そして己に不利益を齎す仕事を拒むことは、己を生かすことに繋がるからだ」

 表情も声色も、喋り方も、ほとんど変わらないままだった秀一さんが、不意に言葉を切って、すっと目を細めた。
 「そして」と、ほんの少しだけ語調を強くして言う。

「――少なくとも俺は、ありすが危険に晒されれば、他の何よりも優先してその命を守ることに重きを置くし、他の全てを切り捨てて、必要とあれば刈り取って、きみを損なわないように最善を尽くすつもりでいる。もしあの男が引き金を切り、それによってきみの命が失われることを、あの男を生かしながらでは防げないと判断したのならば、俺は躊躇なく殺すことを選んだだろう」

 ころす。言葉自体は耳慣れないわけではないのに、初めて聞いた音のように響いた。
 ――秀一さんのそれは、遊びや脅しでなく、はっきりとした意志を含んで発せられたものだ。その時になれば、殺意を乗せて、行動に繋げる。結果何が起こるかを、知識としてのみならず、経験として知っている。解っている。
 そんな言葉を口にしながらも、秀一さんの瞳は、曇りなく澄んでいるように見えた。緑色が、逸らされることなくわたしを見据えている。

「父親と呼ぶか否か、認めるか否かというのはきみの自由だし、どうあってくれてもいい。ただ……俺はきみに対して、そういう心持ちでいるということを、知っていてくれれば、とは思う」


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