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 病室から繋がる廊下の先。降谷を待ち受けていたかのように壁に凭れて立つ男の姿があった。男は降谷の気配に気付くと、それまで見つめていた端末の画面を切って懐に仕舞い、降谷の方へと向き直った。

「あれもあなたがやれば良かったんじゃないですか?」
「事実執刀医はきみだろう。他人の成果をくすねるような真似をするほど飢えてはいない」

 続いてさらりとこぼされた、「ありがとう」という言葉に、降谷は出しかけた声を飲み込んだ。
 他意のないことがありあり分かるあまりにも素直な礼だ、あれこれと言い募る気も削げる。代わりに視線を送るに留めた。
 
 天地も壁も白い棟内では嫌でも目につく、相変わらずの黒一色。
 犯罪組織の構成員や大学院生を装っていた時分には他の色彩も見られたというのに、男が男自身――“赤井秀一”として振る舞う際には、決まってそれだった。少なくとも降谷が目にした限りでは。
 赤井の上司によれば、以前にはゲン直しに断髪したなどと発言したこともあるという。もしかするとそういう信心深いところや慎ましさがあって、一貫した装いは喪に服しでもしているつもりなのかもしれないと、やや感傷的な解釈をしたこともあったが、実のところは定かでない。単に好みと利便性でそうしているだけなのかもしれないという可能性は充分考えられるようでもある。
 憶測を立てることは出来ても、判断がはっきりと下せるほど、赤井は己を語っていない。降谷にそうする必要を感じていないようであったし、降谷の方も、赤井に対してわざわざ心の裡を晒してほしいなどとも、乞えば正直に応えるだろうとも思っていなかった。そもそも聞いたところでどうということもない、益体もない思考だ。
 しかしそれに限った話ではなく、降谷と赤井は、因縁じみた件があり、激情を抱くことさえあったにしろ、基本的には他人である。国籍も思想も立場も志も、細かく言えば人種も違う、全く別のフィールドで生きる、ひととき道が交わっただけの存在だ。わざわざ多大な時間や労力を払ってまで無理に摺り合わせをする必要がない。良好であれば勿論それに越したことはないが、最悪仕事に支障が出ない程度の意思疎通さえ出来れば充分。互いにそれを承知しているから、多少茶化すような真似はしても、無闇に踏み込むことはない。踏み込まずとも問題のない関係なのだ。

 ――そこが差だろう。
 降谷の脳裏に、先程別れたばかりの幼い子どもの姿が浮かび上がる。
 子どもは、降谷の懸念を杞憂だと正すよう笑った。“彼女たち”の面影を残す顔立ちで。

「……あなた、意外といい父親になれるのかもしれませんね」

 赤井は、ほう、とだけ短く相槌を打った。

「僕はそういうの、よく分かりませんし、これからも、分からないかもしれません。ただ……」

 緑の瞳が、じっと降谷を見据える。
 色合いは僅かに違えど、その仕草は似ている。子どももそうして静かに降谷の言葉を待つのだ。あの歳ごろにしては随分と落ち着いたもので、降谷の持つ記憶と照らし合わせるに、それは母親よりも父親の気質に近いように思われる。まだ幼かったからかもしれないが、母親の方はどちらかといえば明るくお喋りで、やんちゃとも言える性格だったという印象が強い。

「あの子にとっては、と。“あなたたち”が好きな探偵も似たようなことを言っていたんじゃなかったですかね。子を知りたくば親を見よ、親を知りたくば子を見よ――それは、親と子が互いに干渉し合い、肉付けをし、時に削り、それぞれ互いにとっての“親”という存在を、“子”という存在を、それを含めた一人の人間としての存在を作り上げてゆき、定義してゆくからではないかと、考えることがあります。親も子も、どちらもはじめからそれとして確立し独立して在る訳じゃない。在り方に正解や普遍的な定型などない。自らを、相手を、自らのため、相手のため、誂え最適化していく。その末にうまく噛み合いさえすれば、それが最善なのかも……当たり前の話かもしれないですけどね。僕にとっては実感の伴わない机上論なんです」

 別段拘りのある事柄ではないつもりだが、降谷にはどことなく、己の声が自嘲混じりに響いたように感じられた。それが他の耳にどう聞こえたのかは、赤井の様子からは伺えない。ただ、僅かに眉を上げたのみだ。

「必ずしも実践が推論に優るわけではない。充分吟味に値する論だと思うが」

 それから赤井は、ポケットに仕舞っていた右手を引き抜くと、ゆったりとした手付きで自らの顎を撫でた。

「きみは存外夢想家だな」

 ボールを替えて軌道を曲げながら返球してくるような言いぶりも相変わらずだ。降谷の言を深く掘り下げようとすることもなければ、釣られて自身を語り出すこともない。

「……そうですかね」

 降谷が追求しないのも、近頃ではお決まりだ。
 以前だとて、降谷としては恥の部類にはなるが、理性的な対話を試みていたわけではなかった。問うていたのは形だけで、むしろそれすらなく、ただただぶつけ、傷つけ、あわよくば挫き、こうべを垂れさせ、屈服させようとしていたに過ぎない。
 そこからすれば、随分と人間らしい関係まで持ち込めたものである。降谷が敵意を解き理性的にと努めていることもだが、赤井に多少人間味が増したことも、要因の一つだろう。それがどこから来るものなのかは、考えるまでもなさそうだ。
 降谷の目には、悪くはない傾向のように映る。ひょっとすると、いずれ降谷も赤井と理解を深め合う未来もあるのかもしれないとも、考えてしまうほど。

 赤井がそれ以上何も口にしようとしないのを見て、降谷は気を取り直すように軽く襟を整えた。

「では。僕は暇じゃないので」

 いつまでもそんな話を続けてはいられない。
 標的を捕らえてそこで終わりというわけではないのだ。降谷の追っていた男は、単に逃亡しただけではなく、例の薬をこちらの人間に流し、自らを見つけさせるために遺体を荒らして回っている。しかも薬を受け取り、それを多数の人間に投与し死に至らしめたのは捜査官だ。権限をもって他の犯罪者に加担しスパイじみたことまでしていたらしく、芋づる式に上司まで埃まみれで引き抜けてしまったのだという。
 ただでさえあの犯罪組織に関しては公表されず秘されたままの情報が多くあり、それらと整合が取れるよう“調整”しなくてはならないというのに、更に火消しまでしなければならない。
 捕らえた男をどう処分するか、いかにうまく使うか。ひとまず直近の問題はそれだ。組織同士の交渉も現状降谷の手にかかっている。どちらにも不利不益なく、あるいは向こうにはそう見えるように、出来る限り母体の優位を保持しなければならない。

「言っときますけど、あなただって同じなんですからね」

 赤井は、一見それらについて全くもって考えていないのではと思わせる表情で、降谷に向かって小さく手をあげて、別れだか見送りだかのポーズらしきものを取った。それから、今しがた降谷が通ってきた道を歩んでいく。
 ――今度はそちらの優先度の方が高いらしい。
 もう降谷が憂慮する必要はないのだろう。
 降谷は、不要な思考をさっと切り捨てた。背後の足音から遠ざかるよう進み始める。己が為すべきことは何か。そのために何をすべきか。踵をつける度に働きを増し冴え渡り、使命を遂行するための脳が、かちりかちりと組み上げられていく。
 最中、なぜだか溜息のようなものが漏れて、己の口端がほんの少し上がっている気がした。


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