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 “それ”が鳴ることがどういうことなのかは、ほんの少し前に知ったばかりだ。
 けれどその光景が何を示しているのか、すぐに理解することは出来なかった。――したくなかったのだ。
 ――秀一さんが、体をよろめかせて、胸を抑えて、その場に膝をついた。
 それが、どういう意味であるか。何故なのか。

「……」

 くっと、詰まっていたものを押し出すような、何かを労りながら、何か障りがあってそれの隙間を縫うような調子で、秀一さんが息を漏らした。小さなものだったはずなのに、わたしの耳にはそれだけ切り取って持って来たみたいにやけによく響いた。それも聞いたことがない、はじめてのもの。
 その音が、その姿が、まっしろになった頭に、じわりじわりとゆっくりインプットされて、ずいぶん時間をかかったような錯覚に陥ってようやく、組み合わさった情報が事実を形なして、わたしに分からせてくる。
 秀一さんが、撃たれた。

「は、大層なこと言っといてそれか? ……時間がねえのは惜しいが、この際別にたっぷりなくったっていい。てめえの息の根だって止めれなくったっていい。ただ邪魔出来ねえ程度でありゃいいんだ」

 男の人のそれは、先程までと違って、怒りというよりも、苦悩に満ちたような声だ。わたしを抱える体は未だ、むしろそれまでより確かに細かく震えていて、巻き付いた腕は、汗をかいているわりには冷たいように感じられた。ぎゅっと、筋肉が縮こまっているような。
 そろそろと見上げてみれば、わたしの視線に男の人はすぐさま気づいて、けれどさっとまた意識を戻した。食い入るように、との表現が似合いそうな目つきで、男の人は秀一さんのことを凝視している。そこには、憎しみだけでない、複雑な感情があるように思える。
 息が少し荒い気がする。秀一さんへと向けたまま銃を握る手も、やけに力が入っている、ような。
 緊張している、のだろうか。

「貴重な経験をさせてやる。無力に嘆くことを、喪失に喘ぎ、後悔に打ち拉がれることを」

 そう言って、男の人は指先をぴくりと動かした。
 ――“あれ”が鳴る合図だ。
 ほとんど反射でそう思い至った。
 ――それを許してしまえば、秀一さんは、あのお兄さんと“同じ”になる。

  “――過敏になっている人間は、些細なことでも――”
 脳裏に湧いた言葉に背押されるようにして、わたしの体は、わたしの思考を置き去りにして、ほんの少し前まで縮こまって固まっていたのが嘘だったかのように動いた。
 髪からヘアピンをむしり取って、自分に巻き付いた太い腕の内剥き出しになった部分に、思い切り、渾身の力で突き刺す。

「――ってぇッ! こいつ――!」

 弱くとも力の限りにやれば多少は刺さってくれたようで、しかし男の人は思ったよりもずいぶん痛そうな素振りで跳ね上がるようにし、ぶんと腕を振ってわたしを放り投げた。
 宙を舞う感覚は一瞬。
 がん、と、衝撃がすぐさまにきた。
 一瞬で痛みが頭部を覆う。転んだ時にする、独特な匂いのようなものが鼻からぶわりと広がって――そこで急に、誰かがチャンネルを変えたみたいに、眼の前の景色がバチリと変わった。痛みが消えて、埃っぽい匂いがふっと消える。



 ――どうか、――

 真っ黒な画面に、あかく滲むもの。

 ――れなんだ、×××は、一体――

 薄暗い室内、顔の見えない人影。耳をぶつような声。上がったのは一瞬。

 ――おめでとう、今年もよく――

 ぽっと灯った小さなろうそく。垂れた蝋は土台の白ごと掬われて取り除かれた。

 ぱちりぱちりと、ザッピングをするかのように、景色が切り替わっていく。

 ――上手よ、×××――

 一面の緑。その上に重なって散る黄色。集めて束ねて作った冠。小さな靴が、地で列をなす蟻を踏み潰した。

 ――××さんもきっと喜んでるよ――

 ほんの少し錆びた遊具。じっと静止した回旋塔に、狭い砂場。ちろちろと傍をうろつく鳩たちは、一歩歩み寄ればまたたく間に逃げていく。

 ――安心して、私たちがあなたを――

 二階建ての木造建築物は、周囲に違和感もなく溶け込んでいた。しかし敷地に踏み入り前にすると、真新しい玄関の扉がやけに浮いて見えた。


 ――なくてもいいから、せめて健やかに――

 不意に、やわらかな声が降ってきた。
 ゆらゆらと心地よい揺れを感じる。

 ――×くん……ううん、××くん――

 ――もう……きっと、わたしは――だから――

 ――は、いつか……××って、呼べるかな――

 ――えていて――おねがいね、わたしの、×××――

 いとおしそうに、切なげにする、おんなのひと。
 その瞳に反射して映る何か。
 目を凝らしてみれば、それが生き物であることがわかった。
 笑顔を浮かべ、小さな手をぱたぱたと動かし、おんなのひとへと伸ばす――、


 ――“わたし”だ。



 そう気づいた時に鳴り響いた、“あれ”よりも幾分軽い音で、その景色は弾けて消えた。この数時間足らずで見慣れた埃っぽい床が視界に広がる。
 なんだったんだろうとわたしが目を白黒させている間に、がちゃん、どさりと、慌ただしい音が続く。

「――人の娘に、よくも勝手をしてくれる」

 少し遠くから聞こえたそれは、いつも聞くものの中で一等低くて、ぞくりとするようなもの。
 いつの間にか、男の人は床に倒れ込んでいて、その男の人の手を、秀一さんが踏みつけていた。男の人がわたしにしていたみたいに、むしろそれよりももっとずっと痛そうにぐりぐりと。立ち姿はシャキリとしていて、膝をついていたときのような焦りの湧く雰囲気は一切ない。ジャケットの胸には、確かに穴が空いているのに。
 はは、と、乾いた笑いが、男の人の口から漏れた。
 右手を踏まれているだけで体の他の部分は自由になっているようだけれど、男の人には、そこから抜け出そう、抵抗しようという気がないように見える。

「……俺を排除して一件落着、親子の絆も深まりましたって、それもいいけどな。俺だって愚策一つで身を捨てに来たわけじゃない――執着は呪いだ。憎悪も愛も変わらねえ。ヒトの苦しみを、生涯かけて思い知れ、シルバーブレット」

 秀一さんは、男の人の言葉には何も返さず黙ったまま、片足を振り上げてその首元に落とした。


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