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「う……」

 ぐっと手を踏む力が強まって、思わず声が漏れた。
 踏まれた部位のみに留まらず、ずっと持続的にどくどくと脈打っていたその周りも、時間が経つにつれ痛みを伴うようになっていて、次第に強く、掌から上へのぼり広がって来ているように感じる。みしりと、いやな感触もした気がする。

「痛そうだなあ、可哀想に」
「そう思うのならやめればいい」

 わざとらしく言った男の人に、秀一さんが静かに言葉を返した。

「そんなんで気が削げると思ってんのか?」
「聞かないだろうな」
「もっと上手に言えよ、やめて下さい、どうかってよ」
「様子を見るに、無駄なことのように思えるが」
「だからやらないって? パパ助けてってピーピー泣いてたんだぜ」

 それには、ほう、と一段短く素っ気ない声。

「おいおい、てめえの×××××のせいでこうなってるってのに随分じゃねえか」

 秀一さんの右手はいつものようにポケットに仕舞われている。けれど左手は地面と平行にすっと伸びて持ち上がり、握った拳銃を、男の人に向けていた。
 紺地に黄色でFBIと書かれたジャケット。それを纏っているのは、以前にもあったような、そういう格好をしなければならない、デスクではない仕事の最中だったからか。――それを着ているときは、いつもこういうことをしているのかもしれない。
 わたしにとってはひどく見慣れないものを持って、わたしにとって非日常でしかないようなことをしているのに、秀一さんの佇まいはごく自然に見える。人に銃を向けて、人から銃を向けられているのに、まるでただ道端で会った知り合いに足を止めただけかのような雰囲気すら感じるのだ。秀一さんには、こういうことは、珍しいことではないのかも。

「……殺意は銃ではなく、その引き金を切る人間が持つものだ。弾丸はただそれに従うに過ぎない」

 呟くようなそれに、何だって、と男の人が声を低くする。
 また痛みの走った手に呻いてしまったけれど、秀一さんはわたしの方をちらとも見なかった。ただじっと、男の人を見つめるだけだ。照準はブレることもなく男の人を捉えていて、その銃を支える手元はおろか、全身微動だにしていない。
 少しの沈黙の後、チッと、男の人が舌打ちした。銃と視線は秀一さんに向けたまま、しゃがみこんでわたしの頭を後ろから荒く鷲掴む。

「餓鬼。お前の母親を殺したのはその男だ。分かるか? そいつは、お前のママが死ぬと分かっていながら、助けもせずに放置した。お前のママを見捨てたんだ。そいつがお前から、ママを取り上げた」

 ――わたしの、“ママ”。
 男の人が指しているのは、秀一さんが付き合っていたという人で、哀さんがお姉ちゃんと呼ぶ人だろう。それを、秀一さんがみすてて――ころした?
 さっきは、秀一さんが“その人”を利用していたのだとも言っていた。遡って哀さんの、連絡一つもなく、という言葉も脳裏によぎる。“やらなきゃいけないと思っていることばかり追っていた”。そのため差し置かれたものの中に、“その人”がいた? それとも本当に?
 突拍子もないはずのことなのに、それを戯言だと切り捨てられない、その可能性を否めないと思う自分が、どこかから顔を覗かせる。
 真偽を知りたくて見上げても、秀一さんと視線は合わない。その表情からでは何を思っているのかも察せられない。

「お前のことだって知ってて放ったらかしにしてたんだぜ。目の前に転がされなきゃ拾わなかった。拾ったのもお前のことを想ってじゃない、自分のためになるからだ。それから、自分のためにならないことが起きないように」

 何か言えと言わんばかりに手にみしりと体重をかけられるけれど、頭がうまく回らなくてどうしていいのか分からず、ただ痛みに泣くことしか出来なかった。

「――言わなくて良いのか? “聞くな”だの、“俺を信じろ”だの。そのために間を取ってやってるんだけどよ」

 なかなか枯れることを知らない涙が視界を覆って、秀一さんの姿を揺らめかせる。
 けれど、

「気遣いはありがたいがな――それはその子が自分で考え、自分で決めることだ。幼くともそのくらいの分別は持っているんでね。あんたと違って」

 ぱちりと瞬けば、また溢れるかと思われた涙は、軽く瞳の表面を潤すに留まった。ぐるぐると渦巻きかけていた不安も、予感とは裏腹に身を縮こまらせていて、仰げば散ってしまう薄い靄のように漂うのみだ。
 浮き上がりかけた気持ちより先に――側頭部に硬い感触が当たって、体の方が物理的にばっと浮いた。

「……銃を捨てて両手を上げろ」

 ぷらりと足が揺れる。抱え上げられて、まさに人質よろしく銃を突きつけられているのだ。そうまでされてようやく秀一さんと目が合ったものの、たったの一瞬で、すぐに逸らされてしまう。
 秀一さんは、表情を変えないまま、ぱっと銃を手放した。がちゃん、と重みのある音が部屋に響く。床に積もっていた埃が小さく舞ったのが見えた。
 それを寄越せ、という男の人の加えた指示通りに、秀一さんが銃を蹴って滑らせ、両掌をこちらへ向けて肩ほどまで上げる。

「父親ごっこは楽しかったか? そうでもねえかと思ったが、多少の情は湧いただろう、そんなクソみてえな事を言えるくらいには。ひょっとすると愛しさでも感じたか。それなら構わねえ。そうでなくちゃあな」

 胸を締め付ける腕が、そして背後にぐっと押さえつけられた体が微かに震えているのは、怒りからくるものなのだろうか。

「俺の姓が昔何だったか、流石に知ってて来たんだろ」

 クスダ、と秀一さんの声が短く返した。

「ならどうしててめえがこんな事されてんのかは分かるよな? 分からねえかなあ、いや、分からなくてもいい。俺は分からせに来たんだよ。シルバーブレッド様は人の心がとんと分からねえらしいからな。卑怯な手で這入りこんで名を上げて、危うくなればさっさとトンズラこいて、誰彼殺して回って、巣に帰れば英雄扱いだ。好き勝手に生きたって周りに持て囃されて、何でも思い通りにしてきたんだろ。奪われた試しなんてないんだろ、取りこぼしたことも、力及ばず歯噛みすることも、知らないんだろ、実らず腐っていくばかりの努力も、何したって足しにならない虚無感も、泥を啜るような生活も、ただ理不尽に嬲られているしかない人生も――」
「陳述なら証言台でするといい」
「……そういうやつだろうと思ったからこうしたんだ。俺が分からせる。俺が思い知らせてやる。お前にも、お前の周りの正義気取りの馬鹿共にも。誰も裁けないなら、俺が裁く」

 なるほど、と、変わらず静かな声が相づちを打った後だった。

「それであんたは、晴れて俺と同類に成り下がったわけだ」

 秀一さんが、これまでに見たことのない表情を浮かべたのだ。くっと上げられた口角に、見下げるような冷えた目つき、嘲笑、と言えるようなものだと思う。向けられているわけではないはずのわたしでもたじろいでしまう威圧感がありながら、見慣れないせいか、それでも尚整っているからか、どことなく作り物めいた印象も受ける。

「――手段を誤ったな。“あれ”に関しては弁護士を雇うなり何なりして気の済むまで追求すれば良かったんだ。あんたの主張が受け入れられれば、あんたの望み通り俺は社会において悪と見做され相応の制裁を受けただろう。しかし、事実以外のものに目や心を奪われて感情を翻す人間は多い。そういう多数の人間たちを煽り操るのであれば、やり方というのは時に結果よりも重要だ。あんたのそれは、大衆的な正義の後ろ盾を得ていたひと時があったかもしれんが、最早その御旗にはさしたる効力はあるまい。かといって、凶行を成し遂げるには些か時間が足りんぞ。既にアンバーアラートが発令されているし、あんたの情報は行き渡っている。のらくらとおしゃべりをしているうちに、あんたは自分の張った網を腐らせ、選択肢を幾つも失っているんだ。まあ、そこまでは求めていなかったろうと――どちらにせよ半端がすぎる。本能の獣には徹しきれず、理性では御しきれず、そのまま潰えるのではむしろ俺の方がましだと言えそうだな」

 ふるりふるりと、わたしを抱えた体が震える。巻き付いた腕がじとりと汗をかいている気がする。

「義や善を唱えるのならばもっと利口に詰るべきだったし、その怨嗟に従うというのならば、」

 言いながら、秀一さんはゆっくりと右手を下ろして、とん、と指先で突付いた。
 ジャケットの、FBIと印字されたすぐ近く、自分の胸を。

「――狙うべきは“ここ”のみだった」

 直後。
 部屋にまた、あの音が響いた。


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