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 窓から見える景色は明らかにすがたを変えていた。座高が足りないので地面近くは視線が届かないものの、見る限り、秀一さんと歩いて回ったところよりも遥かに低い建物ばかりで、あの街の辺りからは確実に離れているのだろうことが分かる。
 もしかしたらわたしの解釈は完全に思い違いで、お兄さんの言う通りで、このお兄さんは“そういう”意味で迎えに来たのだろうか。

「ねえ、ありすちゃん。――ああ、名前だって、好きなものに変えていいからね。“呼び方”はなんだっていいんだから」

 そうか、そうだよなあ、と呑気に内心で相槌を打っていたら、ふわふわと頭を撫でられた。
 さっきもそうだ。お兄さんの大演説に圧倒されてろくなコメントも出来ずにいたわたしに、お兄さんは機嫌を損ねるどころかむしろ嬉しそうに破顔していた。
 一体何を指しているのかいまいち理解できないことまみれだったけれど、なんだかリア充御用達ハッピーJ-POPみたいなことを言われた気がする。まるで熱烈なラブコールのような……ほ、ほんとにそうだったりするんだろうか。
 思えば車へ乗り込むまでも、お兄さんは壊れ物を扱うかのようにそっとわたしを抱いたし、前に廊下で会った時とは比べ物にならないくらい活力の籠もった目をしていたし、注がれるその視線には、なんというか、わたしの勘違いでなければ、甘いというか、あの、あたかも愛おしいものをみつめるような……そんな雰囲気が、わりとたっぷり込められていた気がする。
 そんな風に、ポジティブな感情を向けられるのは、嬉しくないわけではない。けれどどうしても喜びきれない自分がいる。
 ――ようやく、と。思ったのに。
 自分の優柔不断ぶりととろさを嘆くばかりである。わりと本気で凹んでるので説教より先に慰めがほしいです先生。甘ったれるなとなぐぬぬ。



「ちょっと寄り道させてね」

 そう言ってお兄さんは、ハンドルを切り、ややくねくねとした道をとって少し後に車を停めた。
 降りて助手席に回り込んだお兄さんに抱き上げられて見回してみると、もはやあの高層建築物など見る影もなく空は広くて、周囲には青々した木々がこれでもかと茂り、道もアスファルトでなくただ均されただけのような土のもので、視界に入るほとんどが文明とは遠い様相を呈している。
 車がなければどこか違う世界へと迷い込んでしまったのではないかと帰りを心配してしまような森林の中、お兄さんの視線の先、その建物はひっそりと佇んでいた。
 見るからに廃墟といったふうの、おそらく木製らしい、小屋と言うには大きな、倉庫みたいな一階建ての建物。それにお兄さんは躊躇なく、ぎいぎいと音の鳴る扉を開けて、みしみし音を鳴らしながら歩を進めていく。
 たどり着いたのは建物の奥、薄暗く埃っぽい部屋だ。それなりに広くはあれど、コンテナや麻袋やロープ、その他もう使い物にならなそうな古びた日用品や雑貨なんかがあちこち乱雑に転がっているせいで、些か造りよりも狭く感じる。
 そこに、一人の男の人がいた。
 木製の椅子に座っていた男の人は、お兄さんの姿を見るとさっと立って、お兄さんが足を進めるのと同じくらいの速さでこちらへ近寄ってきた。

「見せろ」

 という男の人の素っ気ない声で、「少しだぞ」と返したお兄さんに、わたしの体は男の人へとひょいと渡されてしまった。
 男の人は、お兄さんよりも乱雑な、砂袋でも持つかのような手付きでわたしを抱き、ぐっとわたしの顔を覗き込んだ。

「間違いないな」

 黒い髪、焦げ茶の目、やや低めの鼻に、少し汚れて垢が乗っている、黄みがかった肌。喋る言葉は自然な日本語。日本人、のように見えるけれど。

「早く返せよ」
「まあ待て」

 いなすように言う男の人を、お兄さんは眉を下げながらも、睨みつけるような目つきをする。

「……なあ、あれ、やりすぎだよ。しかもなんで姿を見られるようなヘマをしたんだ。早く離脱しなきゃ。あのバーボンも来てるって言っただろ、アカイと一緒にすぐに追ってくるぞ」
「そうでなきゃ困るからだ。まあ、バーボンは別に要らなかったけどよ。纏めて来るんなら支障ない」
「何?」

 ぴくりと眉を跳ね上げたお兄さんに、男の人は小さく嘲るように笑い、わたしを小脇に抱え直した。足がぷらぷらと宙で揺れる感覚がして、それから数秒もしない間に、全身が浮遊感に包まれ、直後鈍い痛みが走った。
 何が起きたのかと、もたもたと手をつき上体を起こして分かった。床に落っことされたのだ。

「おい、乱暴にするなよ!」

 お兄さんが焦ったような声をあげる。

「もういいだろ、お前が用があるのはあいつだけのはずだ」
「いいや、こいつも使う。むしろいなきゃ始まらねえ」
「いつまで待てばいい?」
「その必要はねえよ。ただ置いていきゃいい」
「……何をする気なんだ? 危ない真似をさせずに返せよ」
「なあ、さっきから返せ返せって、なにてめえのモンみたいに言ってんだ。俺のモンをどうするかなんて俺の勝手だろ。どうしててめえに懇切丁寧教えてやらなきゃならねえ?」
「“お前の”? おい、話が違うじゃないか! その子はくれるって約束だっただろ!? だから俺はあんなことまでしたんだ。お前の仕事が捗るように――」
「仕事? 違う、あれはただの渡りだよ。だから捕まえさせた」
「……どういうことだ?」

 眉を顰め深刻そうにするお兄さんとは対照的に、男の人はずっと軽い調子で口角を上げたままだ。
 拾いあげた言葉からして、少なくともわたしにも関わっていること、というのは分かるけれど、一体それがなんなのか、二人の会話からではさっぱり見えてこない。

「どうもこうもねえ、どっちにしろてめえは用済みだ。とっとと好きな場所へ飛べよ。ご利口にコマンド聞いて駆け回ったのは評価するが、餌ぶら下げられて飛びついて針飲むようなバカ正直な脳ミソは食っても美味くなさそうだしな。ついでに俺は腐敗臭は好きじゃねえ」
「――ああそうか! ならこっちも知ったことか! もう俺たちの助けに期待するんじゃないぞ、今後お前のバックアップは一切しないからな!」

 部屋いっぱいに響くほど荒く言い捨て、お兄さんは、話が読めずに目を白黒させているだろうわたしの傍へと駆け寄ってきて膝をついた。綺麗な紺色の、細いストライプの入ったスーツが埃や砂で白く汚れてしまうのに、お兄さんは構いもしない。
 怒りを身にまとい、焦燥に駆られている風ながらも、お兄さんが浮かべる表情は柔らかかった。わたしに見せるために、わたしの気を和らげるために、精一杯の優しさを込めてくれているのがありありとわかる。

「ありすちゃん、おいで、一緒に行こ――」

 袖口のカフスがきらりと光る。けれど、伸ばしたその手がわたしに触れることはなかった。

 ――だん、と派手な音がして。

 それよりもずっと小さな、どさりという音が、膜越しのような妙な響きで耳に届いて。
 お兄さんは、わたしの目の前に倒れ込んでしまったからだ。

「言っただろうが」

 床に落ちたその頭を、間髪入れずにぼろぼろのスニーカーが、力いっぱい踏みしめた。そのさまを見ただけでも、自分の頭が痛くなったような気がして、ぎゅっと胸が縮こまるような心地がする。みしりと、もしかするとばきりなんて音がしたんじゃなかろうか。
 そんなぼやぼやと聞こえにくくなった耳にも、低い、ねとりとした声はたしかに這入ってきた。

「おい、赤井の餓鬼。――“これ”がどういうものかは、今わかったな?」

 声を追って見上げた先にあったのは、これまで向けられたことのない、本能的に体が震えるような恐ろしい形相で笑う男の人と、これからも向けられることなんて一生あるわけがないと思っていた――鈍く光る、銃口。


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