B-6

 上がり込むのを拒まないのは相変わらずだった。そこが真実彼の家ではなく、また僕が訪れることを家主が良しとしているからだろうが。

「やはりこちらでも会っていたんですね」
「ああ」
「どういう話を?」
「何の益にもならない、くだらないことだ」
「あなたは“キス”が欲しかったんですか」
「男なら誰でもそうだろう?」
「目覚めにそれを待つのは女性でしょう」
「なら違うんだろうな」

 “もう”いらない。こいつはそう言った。
 ――ならば望んだときがあったということだ。
 そういえば階段を降りてきてすぐにも言った。もういい、と。
 諦めたのか、何かを。
 それは誰が?


 邸内に入り、彼は無造作に、ポケットから出したタバコを咥え火を着けた。“沖矢昴”のものとは異なり、以前も吸っていた重い香りだ。使い分けているのか、あれをやめたのか。
 リビングに向かった彼を尻目に、廊下を挟んで反対側の扉を開け、先日把握しきったキッチンで食事を作った。時間としてはもはや夜食という頃合いだが、朝も昼も食っていないというのだ、ないよりマシだろう。
 出来上がって呼べば彼はするりと席について、僕とともに、大人しくそれを平らげた。相変わらずうまくもまずくもなさそうに、丁寧な手つきで淡々と。“沖矢昴”が彼ではないかとの疑いを深めたのはその所作にもあった。
 それから彼は、向かいのシンクで食器を洗うため腕まくりをしたことで露出した、僕の手首に巻き付くカラフルな組紐を視線で捉える。

「ああ、これ? 歩美ちゃん――知ってますよね? 少年探偵団の少女です。あの子がくれたんですよ。学校で流行っているらしくてね、たくさん作ったからと」
「へえ」
「今日は夕方まで“安室透”だったんです――羨ましいですか? なんならあなたにも作ってあげましょうか」
「……」

 冗談に乗ってくるとははなから思っていないが。
 じい、と見つめている、その瞳が何を浮かべているのかはどうにも汲み取れない。

「…………ホントに欲しいんですか?」
「……いや」

 少しの間をおいて、すい、と目を逸らして黙り込んでしまった。
 彼はもともと多弁な方ではない。むしろ今までが喋り過ぎなほどだ。こうして黙って座っていると、この男と僕の知っている彼とが同一人物であるという事実が、ようやくわずかに現実味を帯びる。

「自然に切れるまで身に着けていれば願いが叶うってジンクスを信じてるんですって。可愛いらしいものだ。まあ、明日は“降谷零”ですから、もう早速外さないといけないんですけどね」

 適当なことを言いつつ、二人分の食器の泡を流していく。彼も自炊をするようになって、今では一丁前に食器を洗ったりもするようだが、僕がやったほうが綺麗になる。横で見ていれば手を出したくもなるから、それならはじめからやってしまったほうが早かった。
 向こうもそう思っているのか口も手も出さない。そういうところも、確かに彼だ。
 じゃあじゃあとした水音の中、小さなつぶやきが転がり込んできた。きみは強いな、と。
 急になにを煽て始めたのかと思ったが、彼はシンクのあたりに目線を置きつつ、どこにも焦点を合わせていないような素振りでいる。

「揺らしたのは――無様に羽ばたく羽虫は、俺だった……」

 ずいぶん乾いた響きだった。

「……それ、自虐ですか?」
「…………すまない、もう言わない」
「非難ではなく、要領を得ないから分からないと言っているんです。一体どういう意味です? 前提条件や土壌を教えてください」
「……意味のない、たわごとだ。忘れてくれ」

 ライであったころは、こう卑屈ではなかったはずだ。たしかに見ていてやや腹の立つ……まあ少し、心配というのか、そんな気になるようなところはあったけれど。それはフィジカルな面が強く、メンタルとしてはむしろ僕がそよぎすらしないそれに慄いたほどだ。
 不安定な精神は本当に、“彼女”由来のみであるのだろうか。
 今彼はどうしてそんなことを言った? 僕が口にしたことと言えば、小学生の少女のこと、僕のこと、願いを託す児戯。たったそれだけ。“沖矢昴”はともかく、彼はあの少女と何ら関わりないと言っていい。組紐だって、こんなものに縋り想いをかけるような柄でもないだろう。あるとするならば――僕のこと、になるが。
 思い返せば僕にしろ他の人間にしろ、さしてその中身に興味を持たないヤツだった。得ようとするのは“仕事”に必要な、所属や属性などの客観的な情報のみ。生かすべきか否か。他人の情に疎ければ、その痛みを感じ取るのもただ知識だよりの鈍い男。

「ねえ、あなた、僕に何か引け目を?」

 自分でもわからないまま曖昧に訊いてやれば、どういった意図でか、赤井は目を細めた。

「……ああ、たぶん、とても」


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