OSTRICH POLICY

 夜の海のようだった。
 暗く藍が広がって、みなもに揺蕩い月光を散らすかのよう、ごく小さな灯がきらきらと数多煌めく。
 それを美しいと思ったのは、それを示してくれた人間を、そこへ導いてくれた人間を、その穏やかな瞳を美しいと思ったからだった。
 ――おそらくは、そう思う自分がいたのだ。


「終わった、終わった終わった終わった終わった終わった終わった、また始めないと……」

 瞬いて、次に映ったのは薄暗く見覚えのある天井だ。すかさず耳に入り込んできた念仏のような声が、さっきまでのおセンチでポエミーな気持ちを場外までかっ飛ばしてしまった。
 少し首を動かして音の方を見遣れば、金髪の男が俺の体にしがみつくようにのしかかって、ゴメン寝のポーズで俺の柔らかくもない胸に顔を埋めていた。体が重いわけだ。金縛りの正体見たりおまわりにゃん。今日も今日とて号泣しているようで、胸にじっとりとした水気を感じる。
 それで何が終わったんだ追いかけてた今季神アニメ?

「まただ、また、また駄目だった、駄目だった、駄目だった、駄目だった、どうしてなんだ、なぜ、なんでこうなる、なんで死ぬんだ、なんでお前まで、死なないって言ったくせに、嘘つき、死んだじゃないか、また、なんでだよ、どうして死ぬんだ!」
「……死んでない」
「うそだ、死んでる、死んだんだ、またあなたは死んだ!」

 どうやら俺のことだったらしい。お前今死体と喋ってることになるがそれはいいのか。

「なぜ死んでいると?」
「だって見ろ、この血!」

 パッと開いた掌を向けられたが、顔より白い肌色のそれには、ヘモグロビン由来の色なんてその皮下に薄っすらとあるくらいだ。まさかお揃いなのか。

「それにこれは死の匂いだ。錆びた匂い、朽ちた臭い、饐えた匂い、終わりの匂い――くさい」

 くさいくさいと連呼されてしまった。
 さすがにくさったしたい扱いはちょっぴり傷つく。いっそのことあまいいきでも吐ければ大人しくなっていいのかもしれんがそんなわざも持っていない。そら女子力の高い女性のようないい匂いがするわけない三十路男ではあるにしろ、ちゃんと体も洗っているしこいつだって変わらないはずなのに。
 れいがゆったり顔を上げた。俺の腹に手をつき上体を起こし、マウントを取るような体勢になって見下ろしてくる。
 その顔が見覚えのある形で歪み――あ、と思った時には遅かった。

「う゛」

 喉をこそぐような音とともに、それこそ強烈な香りのものがじゃばっと降り注いだ。
 フィジカルにはノーダメージだがメンタルには盛大に効くなかなかのパンチ。さっきまで意識が飛んでたせいもあって反応が遅れ避け損ねてしまった。しかも二度三度と追加攻撃まで来て胸元から首までびしょびしょだ。ほとんど液状だしマウストゥーマウスで飛び込んでこなかっただけマシか。うーんこの。
 とりあえずそのまま吐ききるまで屈んできた背を擦ってやる。アイムユアトイレットルーム。シーツも洗濯だなこれは。
 ふっかけられたのは初めてだが、ベッドで吐くのはしばしばあることだった。最初の一回はなんとか床のほうへさせ、それからはラバーシーツを敷いているので、幸いどう洗えばいいか分からんマットレスは未だ無傷だ。まだまともだった頃のれいの、異常なほどの備えの良さのおかげである。
 落ち着いたところでれいの口もとと俺の体を軽くシーツで拭い、ぐったりしたれいと丸めたシーツを抱えてバスルームへ向かった。本当は安静にさせていたほうがいいんだろうが、吐物を放置するのはちょっと。ついでにくさったしたい呼ばわりも地味に気になって喉に刺さった小骨のようにメンタルにチクチク持続ダメージがきている。
 嘔吐で水分が足りてないだろうしシーツの替えはあるから手短に済ませようと、れいとシーツをざっと洗ったのだが、出る間際になって珍しくれいが湯沸かしボタンを押して入りたいと言い出したので、湯が溜まるのを待ち、二人で湯船に浸かることになった。俺は良いと言ったのに一緒に浸かると聞かなかったのだ。
 れいは俺が腰を下ろした上に向かい合う形で乗っかり、俺の首に掴まって肩に額を当て、ぷかぷか浮くように体の力を抜いている。俺はビート板か何かか。実際のところはそんな浮力も浮かぶだけのスペースもないけども。

「まだ死んでいるように見えるか?」
「……」

 へんじがない。しかばねしかいないのかここは。
 死体が風呂桶なんぞに浸かってたらえらい勢いで腐敗が進行して屍蝋化しそうだ。

「……何か喋って」

 口を開いたと思えば急な無茶振り。モンスターでないことを証明したくば人語を発しろということだろうか。

「あー……、実は以前、職質されたことがある」
「不審な恰好や言動だったんでしょう」
「FBIだと言っても信じてもらえなかった。ニ課の刑事にも」
「まともなFBI捜査官なら一万キロ離れた国で仕事をしているでしょうからね。バカンスとも思われなかったのならいつもの格好でそこらをふらふらしてタバコでも吸ってたんじゃないですか。旅行で訪れる人間と現地に住む人間では荷物も服装も所作も違います。どうせ英語でなく流暢な日本語で応対したんでしょう。名前はいっぱしに日本人らしく、見た目もそう異国の作りが強いわけでもないんですから疑われるのは当たり前です」

 ぐう正論。終了。
 上がるかと聞いたが、無言で首を振られた。濡れた金髪が顎や首筋を擽る。

「髪が伸びたな」
「嫌いですか? なら切って」
「好きも嫌いもない」
「あなた髪に思い入れがあるみたいだから」
「特にそういうのもないが……」
「うそだ、嘘じゃなきゃ忘れてるんだ」

 その可能性は大いに有りうる。まあしかし忘れるくらいなら大したことじゃないんだろう。
 元々若干長めであったれいの髪は、いつの間にか軽く結べそうなほどになっていた。前髪も同様で邪魔ったそうだからいい加減切ってやった方がいいかもしれない。以前はこれが地毛なんだか気になったこともあったが、これだけ伸びてもまだ真っ金金だ、間違いなく自前である。
 手を差し入れて根本を眺め、軽く梳けば、「ん」と声を漏らしてれいが微かに身じろぎ、つかまる力を強めた。

「ねえ、もうないんですか。それだけ? 何言ってもいいんですよ。つまんない話でも、泣き言でも、愚痴でも罵倒でも何でも。何でもいいから声を出して」

 そんなことを言われても特に思いつかない。この一年と少し、話の種になるようなことをさっぱりしてないのである。中身と信憑性はさておき常にゆんゆん交信しているれいとは入る情報量が全く違う。

「………………むかしむかし、あるところに」

 肩からぶっと音がした。

「あはは、昔話ですか? 桃太郎? 笠地蔵? 鶴の恩返し? それとも童話かな。あなたそういうの知ってるんですね。その脳にフォークロアなんて置いておくだけの余分なスペースがあるとは思いませんでした。小さいころ絵本を読んでた? 読み聞かせしてもらったりしてたんですか? 想像付かないや、絵本をせがんだり朗読に聴き入る可愛い子どものあなたなんて」

 なんだか知らんがウケたらしい。れいは少し顔を上げてけたけたと笑いだした。

「グリム童話とか、ああいうの、大人になってから読みました?」
「いや、覚えがないな」
「子ども心にも思ってましたが、元々結構血生臭くて残酷なんですよね。近頃は子どもに良くないなんて言って和らげたり抜き去ったりしているらしいですけど、かわいそうだとか教育に悪いとか、そういうの、浅慮な大人のエゴじゃないですか。子どもが感化されることを恐れ未来がどうのと言うなら、親のするべきは読んだ上でどうするかを考えさせ社会倫理に迎合出来る言動を選択するよう教え導くことであって、手にとることや読むことそのものの規制や選別ではないでしょう? ずっときれいなものばかりで囲っていられるわけでもなし、耐性も免疫もないまま急に放り出されれば些細な傷病でさえ重篤化するんですから、そちらのほうがよっぽど可哀想だ」

 結局はれいのOHANASHIオンステージになってしまった。こうして息継ぎ少なく捲し立てるように喋り始めるとなかなか止まらないもんで、俺が声を上げる隙などない。というか、大抵こういう時に話しかけたってちくわもビックリそもそも穴すらないんじゃないかというほど耳に入らない。問いかけるような言い回しをしていようが、それは単なるファッション疑問文なのである。

「僕は嫌いじゃなかったですよ。地盤に何があろうと、本の形で書き上げられ出版された時点で、どのみち作り話ですからね。表現や発想は面白かったですし、読み比べると時代によって何が好まれ何が敬遠されているのか分かって。でも――もう今はいらない。重くて救いのない話なんてうんざりだ。思い通りにならないのも、あれこれ失っていくのも、辛くて苦しいばかりなのも、何もしなくったって嫌というほど思い知らされるんだ。作り話の中でくらい、都合が良くて甘っちょろい夢を見たい。キスで全部解決するような、そんなの」

 そこまで言って、れいが吐ききった息を取り戻すように吸い、落ち着けるように吐いた息と共に零したのは、どこか自嘲するような声色の笑みだ。
 じじ、とノイズが走る。

 ――××××××が×××な――

「今ならあなたの気持ちわかりますよ。僕も悪夢から目を覚ましたい」

 ――そうか、と思って。
 その後は特に何も考えていなかった。
 ただ、何の気なしに、自然に腕が動いてしがみついてくる体を少しだけ押して離した。動いた分体に纏わりつく水が揺れて、その感触にぞわぞわと肌が粟立つ。一つ息をついてそれに耐えて、湯気で湿った褐色の頬に触れ――
 隣の、やや血の気の少ない唇を食んだ。

「……え、あ……」

 今までどこかうつらうつらとして焦点の合わなかった瞳がはっきりと俺を捉えて、重そうだった瞼がぐっと持ち上がる。
 れいは目を見開いて、それから口もかぱりと開けて、何かを言いかけ、色は優れずとも柔らかな唇をはくはくと繰り返し開閉させた。あれだけ回りの良かった舌が縺れでもしたかのようだ。
 そうして幾度かぱちぱちはくはくとして、くしゃりと顔を歪め、

「――死にたくない」

 と言い、ぼろぼろと泣き出してしまった。
 くさったしたいの次はディメンター扱い。格が上がったのか下がったのか分からないが明らかにポジティブに捉えてはいけない類だろう。
 いや俺もどうかしている。王子様でもオジサマでもない俺がキスしたところで単なる強制わいせつ罪であって、れいが美少女にドロンしたりまともなおまわりさんに戻るわけがない。そもそも別にれいは魔法にかけられてるわけでもアニメ絵になっちゃうわけでもなし、奇跡も魔法もないからこんなことになってるんだろ。アホか。俺にもどこかの星雲から余波が来ているのかもしれん。
 本人としても可愛い女の子かきれいなお姉さんにでもされたかっただろうに本当に申し訳ない。まさかファーストキスではないだろうと信じたい。

「すまない、悪い、つい……」

 小学生以下の下手くそすぎる弁解はもちろん通らず、むしろ溢れる涙の増量キャンペーンを引き起こしてしまった。五十パーセントなんてケチなことは言わず百パー二百パーと採算度外視投げ売りレベルの大放出である。

「やだ……やだ……しにたくない、やだ……」

 流石にこれ以上水分を消費させるのはいかんと、いやだいやだと子どものように、しかしそれまでよりは静かにぐずぐずと泣くれいを連れて風呂場を出た。

 ひとまずれいに水を飲ませてシーツを敷き、ベッドに飛び込む。れいは早速敷いたばかりのシーツを濡らしだした。泣き止むのはいつになるやら。
 俺が意識を飛ばしていた間何も口にしていないだろうから腹も空いたろうし、本当なら食事も与えておきたかったが、のぼせたのかひどくくらくらして、とてもじゃないが介助なんてしてやれそうにない。もうとっくに拭い去ったはずなのに、まだ体表を這う液体の感触がしてぞわぞわとしている。どうにも落ち着かない。体が重い。息が乱れる。ぐるぐると視界が回る。
 ぐっと瞼を閉じ、れいの唇の感触の残るそこを指でなぞれば、僅かにそれが治まった気もした。


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