NOOSE

「ふふ」

 吐息混じりの笑みが、すぐ傍で響く。同時にかちゃかちゃと小さな金属音もする。
 左手がぐっと握られた。手の甲に柔らかな肌が押し付けられる感触がして、指の隙間にするりと何かが割り込む。
 指と指を絡ませ、俺の左手を引き寄せて、れいは、その手首に纏わりつく金属に頬ずりをした。
 そうして、鈍く光る輪と、垂れた鎖と、ついでとばかりに俺の手首や掌に口付ける。


 驚くべきことに、れいはキス自体が嫌なわけではなかったらしい。
 いくらか前、まためまいなのかなんなのか、とにかくひどくぐらつき意識朦朧としていた時、トチ狂ってうっかり再犯をやらかしてしまったのだが、れいは嫌がるどころか、むしろ顔を綻ばせ喜びを顕にしたのである。直前まで相変わらず何かを喚いて憤慨していたはずがぴたりと止み、以降数時間ずっとにこにことして調子よく鼻歌まで歌い出す始末だった。
 それから何度か試してみたところ、いずれも反応は同じ。
 一体どんな心境の変化があったんだか、あるいは交信による指令や洗脳があったんだか、その心中は定かでないが、事実として、れいは名前を呼んでキスをするととんでもなくご機嫌になる。
 ――こんな風に。

「れい」
「ん……ふふ」

 目を細めて大人しく受け、ゆるく笑む。そしてまた、れいは手錠に頬ずりをし始めた。
 その表情は穏やかそのものである。泣いたり怒ったり喚いて大暴れするのも慣れはしたが、引っ張り回されるのも地味に大変だし、れい自身の消耗も激しく怪我だってするのだ、ないならないほうがいい。キス一つで落ち着いてくれるならと、れいが不安定になるたびやっている。

「はじめてだ。はじめてあなたがしてくれた」

 二人で潜り込んだ毛布の中、すぐ近くで発せられた声はよく耳を打つ。れいの吐息が指先を擽った。

「僕が強請らずとも、僕が乞わずとも、おれが強いなくても、おれが奪わなくても、お前が、あなたがしてくれた。あなたから。あなたがしたんだ。あなたはしてくれるんだ」

 そう言いながらも足りないと言わんばかりに口を結んでこちらに顔を向けてくるので、もう一度してやる。れいはごく控えめに俺の後頭部を撫でた。
 いつも遠慮の欠片もなく全身ガブガブしてくるくせに、唇にだけは絶対に向こうから食もうとはしてこないのは、また何か謎のポリシーがあるのかもしれない。
 後ろに回っていたれいの手がするりと移動し、今度は頬や顎を通り、首筋を辿り、胸を這う。形や感触を確かめるよう、ゆっくりと。

「生きてる……生きてる、あなたがこんなに。あなたが、一年も生きてる……」

 セミじゃないんだからそら一年や二年くらい生きたところで不思議なもんじゃなかろうに。俺も自分も今まで何年生きてきてると思ってるんだ、三十路だぞ。

 ともあれ、ご機嫌取りの方法が見つかったおかげで二度目の買い出しは何とかなりそうだ。
 食料はまだ余裕があるのだが、日用品が尽きそうだったのだ。車に載せられる分だけ買ってきてはいたものの、嵩張るわりにはあまり量がなかったのである。

「死にたくないんだろう。俺もきみも生きるために必要なことだ。行こう、れい」

 そんな感じであれやこれや言い何度か口付ければ、れいは渋りながらも前回より遥かに機嫌よく承諾した。またしても目隠しと拘束をしての着替えだったが、それも前よりは比較的軽い手付きでのことだった。


 小一時間で山を下り、今回はさらに少し遠くまで出て、いくらか彷徨いて見つけたスーパーで、とにかく車に載せられる分店にある分をカートに突っ込み会計をした。出来れば常識的な量ずつ梯子した方がいいんだろうが、れいが直ぐに帰りたがるのでやむを得ない。山積みのカートと終わらないバーコードスキャンの音が鳴り響くさまはあたかもアメリカ人の買い物風景のようだった。いや俺はアメリカ人だけども。
 精算を済ませた後、カートを連れて駐車場に行き、荷物を積み込んでいる最中、手伝いもせず俺の腕にしがみつき周囲をきょろきょろと見回していたれいが、不意にびくりと体を跳ねさせて大股で数歩後ずさった。急だったもんで思わず手を放してしまい、トイレットペーパーが地面に落っこちて転がる。

「れい、どう――」
「何の用ですか!?」

 れいは俺の腕をぎゅっと握って体を引き寄せ、背後に向かって何やら威嚇するようにそう声を荒らげた。親の敵とでも対峙しているのかというほど随分険しい表情だ。
 しかし、振り返って見ると、なんの変哲もない、スーツを着た男が立っているだけ。ひょろりとした男はどこか間抜けな雰囲気も纏っていて、そう脅威にも思えない。またウイルスバスターれい先生は過剰な防衛反応を起こしてしまっているようである。

「すみません、ちょっといいですか。僕、群馬県警の山村警部です」

 “警部”にやたら力を入れてそう言ったコボちゃん似の男は、へらりと笑って警察手帳を見せた。

「実はあのスーパーで殺人事件が起きちゃいまして。少々お話を聞かせてくれちゃったりして頂きたいんですけども、よろしいですかね?」
「……ええ、構いませんが」
「いやです! やめて、ねえ、帰りましょう。そんなの従う必要ないです」

 ひどく焦った表情を浮かべ、れいが縋りついてくる。
 しかし見せられた手帳は本物だし、発言も本物のようで、男に他意ある様子は見られない。モノホンのおまわりさんであればれいの恐怖の対象になるようなもんじゃないはずだ。むしろそうして敵意剥き出しにした方がまずい相手である。
 妙に狼狽えて不審な素振りを見せ、身分証の提示なんかを求められたら困るのだ。スバルには沖矢昴の免許証も赤井秀一の国際免許証もIDカードもあるが、今は沖矢昴の姿をしていないし、赤井秀一は表向き殉職したことになっているのだから、身元の確認やらでビュロウに連絡されてもそら死人やでと言われてしまう。れいに至っては一切何も持っていない。
 訝しまれて署へ連行なんてことになれば、説明できない事情が多すぎてあまりいい目には合わなそうだ。あの家に帰れなくなる可能性もある。それはれいだって望まない展開だろう。

「話をするだけだ、すぐ終わる。そうしたら帰るから」
「行っちゃ嫌だ……」
「少しだけ辛抱してくれ、れい」
「……」

 れいはぶすくれたように顔を顰め、手を握る力を強めた。


 どうにかこうにかれいを宥めすかして連れられたバックヤードで話を聞いたところ、事件は俺たちの来店中に起きていたらしい。そして俺が片手でもたもた荷物を運び入れている間に発見されたとか。裏で作業をしていた店員が刺殺されちゃったんだそうだ。
 どうやら俺たちは容疑者でもあるようだ。他にも客らしい男が二人、店員らしいエプロンをつけた女性が二人、集められた他の人間がそれぞれ店内で何をしていたか聞かれて答え、それを警部が「あやしいですねぇ」だとか「やっちゃったりしちゃったんじゃ?」なんて謎の方言だとかで茶化していく。

「――あたしじゃないわ、そいつらがやったんじゃないの!? きょろきょろしちゃって、見るからに怪しいじゃないのよ! しかもそいつら、保存食を大量に買ってたのよ! まんまと逃げてやり過ごす気なんじゃない!?」

 ややヒステリックに声を上げ、俺たちを指差してきたのは、俺たちと同様集められた参考人兼容疑者の内の一人、ふくよかなご婦人だ。若い女性は困惑気味に押し黙っているが、中年ほどの男女と若い男はあからさまな懐疑の眼差しをこちらに向けてきていた。
 ご婦人の目と指先が俺たちの手元を――手を突っ込んだポケットをさした。

「そこに凶器を隠してるんじゃないの?」

 んなアホな。
 とは思うものの、その目はマジ。それだけでなく周囲の男女と、まさかの警部まで怪訝な表情でいる。若い女性が怯えたように一歩後ずさった。おいおい。
 警部はそれぞれの反応を見回した後、随分緊張した面持ちで一歩前へ出た。

「あのー、念のため、その手、出してもらっちゃっていいですかね?」
「……」

 嫌がるんじゃないかとれいを見下ろせば、それについてがどうのというよりも、そもそもこの場の人間全て敵といった具合に嫌悪感を露わに全員満遍なく睨みつけている。せめて警部にだけはやらないでほしいが言っても聞かないんだろうな。

 ――そっと引き出せば、ちゃり、と軽い金属音がした。

「……」
「……」
「……」
「…………へ?」

 疑わしげな目はその瞬間さっと消えたが、代わりに何とも言えない雰囲気が漂う。
 警部が若干青ざめ、下手くそな愛想笑いで拳を作った両手を前に出した。所謂手錠をかけられるポーズ。

「もしかして……自首してくれちゃったり?」
「そんなわけがあるか」

 思わずマジレスしてしまった。
 いっそ和やかにすら感じられる間抜けな光景だが、れいにはそう取れなかったらしい。眉をぐっと寄せて口元を歪め、身を固くして冷や汗さえ浮かべて、呼吸を浅くしている。
 悲しいかな見慣れた姿だ。ぶつぶつと、始まりは大抵念仏じみている。

「――帰りましょう、こんなところ、いないほうがいいです。あなたを狙ってるんだ、僕たち謀られたんだ。だから言ったじゃないですか、だめだ、だめだ、出ないと、逃げないと――」
「おい」
「きっとそいつです、いいや、その女、違う、そこの男、それだけじゃない、どいつもこいつも――ねえ、こんなにいたらあなただってその場しのぎでも太刀打ちできない。僕じゃあなたを守れない、守れないんです、守りたいのに、どうしたって、どうやったって、因果でそう決められているかのように殺される、どれだけ足掻いたって無駄なんだ! だからだめだったんだ、出るなんて!」
「落ち着け」

 一応ドウドウと言ってはみたが効かないのは百も承知である。ガチャガチャと鎖を鳴らしながら俺の腕や体を揺すぶり、思い切り引っ張って出口へ向かおうとする。痩せたれいの力はそう強くもないが、それは俺だって大して変わらないもので、踏ん張りきれずにたたらを踏んでしまう。
 この状態になったら鎮まるのを待つしか手立てがなかった。――ついこの前までは。
 ひと目があるからさすがに、とはちょっと思ったものの致し方ない。とにかくれいを落ち着けるのが先決である。

「はやく、はやく逃げて、はやくはやくはやく、はやくしないとあなたが、いやだ、だめ、だめ、だめ――」
「れい」

 れいの肩を掴んで自分の方を向かせる。少し身を屈めて、わななく口元に唇をつけ、吸う。

「ん、……んう、う」

 すぐに止めてはまたゆんゆんトークが飛び出るかもしれないので、しばらくそうして、ややかさついたその唇を食むようにして自分のもので挟み、何度か角度を変えて繰り返した。
 青い瞳が滲ませていた焦燥を溶かしていくのを確認してからそっと離す。
 戻してまたれいがガンつけないように、れいの後頭部、金髪へ差し入れた手を引き寄せ、れいの額を俺の肩にぐっと押し当てた。

「……そういうプレイの最中なんです。恋人同士で何をしようが勝手でしょう?」
「そ…………そーですねえ……」

 警部は今度こそ真っ青になり、えげーってな顔を隠しもせず全面に出している。気持ちは分かる。そんなリアクションをされてショックでないわけではないが、これで疑いが晴れるなら安いもんだ。これ以上おまわりさんの顰蹙を買ってはたまらん。一応俺もれいもおまわりさんではあるんだが。
 中年の女性は顔を顰め、男二人は完全に気が抜けたというか、殺人犯ではないがとんでもねーエイリアンが居るみたいな顔になっている。まさにドン引き。しかし若い女性の方はなぜかちょっとニヤけている。そんなに面白い絵面だったのか。

「彼、少し情緒不安定で。多めに見て下さい」
「は、はぁ……少しって言えちゃう感じですかね……?」

 微妙な空気の中、ハッと気を取り直したように、ご婦人が項垂れかけていた指をびしりと突きつけてくる。

「――そ、それだって今付けたものかもしれないじゃない!」

 まあ確かに店内ではずっとポケットに入れっぱなしで、会計のときですら、財布をれいに持ってもらって片手で行ったのだ。その時も手錠を付けていたと証明出来るかというと難しい。
 さて何と返したもんかと悩んでいたら、肩口からもごりと篭った声がした。

「お粗末な犯行だ」

 それでも彼女たちには聞こえたらしい。全員が何言ってんだコイツみたいにれいを見る。自然俺に視線が集まってちょっぴり居心地が悪い。

「彼女たち二人でやったんでしょう。仕入れのカートを盾にして防犯カメラの隙を作った」
「“二人で”って……」
「ちょっと、根も葉もないこと言わないでくれる!?」

 うーんそれはこちらの台詞でもある。
 れいは金切り声を歯牙にもかけず、俺にしがみついたまま続けた。

「じゃあどこから僕たちを見ていたんです? 十四時五分に来店して会計を終え十四時四十ニ分に店を出た僕たちを、あなたは一切見ることができなかったはずだ、あなたの証言を信じるならね。僕たちは生鮮食品を一切買っていないしそのコーナーを通ってもいません。僕たちの会計のときにはあなたは別の場所にいたはずですよ。レシートや防犯カメラであなたと僕たちの行動を確認すれば明らかになるはずです。でも次第によっては十秒ほどだけ僕たちを見ることが出来る時間があった。十四時ニ十六分から一分間。ちょうど犯行の時間だ。インスタント系の食料品棚の端からその裏へ移動するために折り返そうと思うと、魚類のコーナー沿いのルートへ出ることになる。あるいは、“客”には存在と視線の気づかれにくい場所がありますよね? きっとシフトの交代時か被害者の勤務形態がそうだったんでしょう。何にせよどれも資料を鑑みればすぐに導かれるはずの答えばかりです。だからあなたはその髪を――」

 コックの壊れた蛇口のような有様はいつも通りだが、その声はやけにしっかりとしていた。
 れいが喋れば喋るほどご婦人と中年の女性が青ざめていく。それは警部の目にも止まったようである。終いには泣きながら自供し始めたが、れいは彼女たちには一切興味がないというか、そんなことよりも帰りたいようでそれをまた怒涛の勢いで警部に訴え、怯みきった彼から帰宅の許可をもぎ取った。

 もはや隠す意味もないかと両手でさっさと荷を積んで、乗り込み発進させた車の中。
 れいは、シートに深く座り、体を運転席側に向け、家に着くまでずっと俺を見つめていた。目元も口もとも緩めて、黙ったまま。


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