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食料が尽きてしまった。それだけでなくその他の消耗品も。 半年。元々一人分の蓄えしかなかっただろうに俺まで使ったのだから、まあよくもった方だ。 しかし、俺は良いとしても、安室透にはダイレクトにその影響が出ているようである。 吐きはしても多少なりと入っていたお陰で幾分マシになってきていたところだったというのに、たった一週間で、また以前のようよろよろとした足取りが増え、よくぐったりとして横になるようにもなったし、顔色も悪く、喚き暴れる際の勢いもなくなってきた。これではぶっ倒れていたときに逆戻りどころかあれよりひどくなる。さすがにそろそろまずい。 「いい加減買い出しに行ったほうが良い」 「……いや、いやです」 カサついた声のあと、軽い咳が響く。 ソファに寝っ転がった安室透の体を少し起こして、そばに置いていたペットボトルを開け、その口をつけてやると、素直にこくこく飲んだ。何のポリシーなんだか、飲み物でさえ俺の手からでなければ飲もうとしない。 俺が動くにしろ手錠のせいで引き連れることになるので、安室透の体力を温存するためにもいちいち取りに行く手間を省こうとペットボトルに入れているが、中身は単に浄水器から出した水だ。元々おしゃべりな上ハイになったりヒートアップしたりしてやたら舌や喉を酷使し、涙も鼻水もぼろぼろおしみなく放出するもんだから補給が必要だろうと、安室透には結構多めに水分を取らせていたのである。ミネラルウォーターの類は早々飲み尽くしていた。 水道が通じているのが救いだ。これがサバイバルなら詰んでいた。人間しばらくは水だけでも生きられるというが、安室透は体脂肪率が低そうだし、そんなに長くは保てないだろう。 「外に出たくないと言うなら、俺が行ってくる」 「一人で? ここを出て? あなただけで? はは、見たでしょう、あれ。どうやって入るつもりなんですか? ――ああ、それで一人で行くって? 僕の手を切り落として。それから目玉をもいで持っていく? 別にものさえ合っていれば胴にくっついてなかろうと生きてなかろうと反応するタイプですからね」 「いや、そんなことしなくていいだろう。きみが中から開けてくれ」 「戻ってこない気だろ、そうまでして帰ってくる必要もないんだ。だから要らないんだ、僕の手も目も。そのまま消えるつもりなんだ、おれを置いて」 「ちゃんと帰ってくる」 「出ていったらお前は帰ってこれない」 そんなはじめてのおつかいじゃあるまいに。 安室透はソファの上で縮こまるようにして、ぐっと顔を顰めた。 「――あなたは帰る気がなかったんだ、いつだって。あなたの帰る場所なんて、あなたが帰りたいと思う場所なんて、どこにもなかったんだ。だから何も繋ぎ止めるものにならなかった、女も、巣も、飼い主でさえ。ましてや僕なんて、舫い綱どころか、それを掛けられるのを待つばかりの係船柱にもならなかった」 「不安ならきみも来ればいいだろう」 「いやだ、やめましょう、だって外は危ないんです」 ばあばが言ってたってか。ネズミにでもして運んでやらんといけないのか。 「あなたにはわからないんです。どれだけ危ないことが潜んでいるか、どんな獣が爪を研いで待っているのか。その塒を、ただの藪や洞だと思ってる。いいえ、それが何であれ構わないと」 「買い物なんてすぐ終わる。何かあっても俺がなんとかする、守ってやるから」 「無理だ、できっこない。お前は何も守れてない、守れやしない、守った気になるだけだ。その時だけなんだ」 見事なまでに信用ゼロ。しかし違うのかと聞かれると胸を張って頷けないんだよなこれが。無能の自覚はある。 「だが、このままだときみが死にそうだ」 「あはは、そうなんですか。ならあなたが殺して」 なぜそうなる。 人には死ぬな死ぬなと泣き縋りながら、自分のことはすぐに殺せ殺せと言うのだから困ったもんである。人の嫌がることはしちゃいかんが、自分が嫌なこともしちゃいかんだろうが。 別に俺には安室透を殺すべき理由もないし、殺したいと思うほどのこともないし、そういう趣味もないんだけども。こいつの中で俺は一体どんな危ない輩になっているんだ。 ――×××だって×××ない―― じじ、とノイズにまぎれて、男の声が頭に響く。目の前のこいつは唇を閉じているのに、それと同じ声が。 ――×××を××る××に―― もやりと胸に湧く奇妙な感覚のもとは掴めない。どうして響くのかも、未だ分からない。こうしてふとした拍子に、あるいはこいつの何かがきっかけになってか度々脳を揺らすのだ。 ――ともかくこいつが、死なずに済むならそれに越したことはない。 「……俺も死ぬかもしれんぞ」 そう言った瞬間、ソファにくたりと体を預けるようにしていた安室透が跳ね起きて、俺に飛びついてきた。踏ん張りがきかずに、どん、という音とともに後頭部と背中に衝撃が来る。 踏ん張る力もなかったのだ。途中から食い物は安室透に回していたんだが、流石に俺も水だけじゃ弱るらしい。 「だめだ、だめ、あなただけは、だめだ。僕を殺して出ていって」 「出ていくのが嫌だったんじゃなかったのか」 「いやだいやだいやだ、あなたが死ぬのはいやだ」 「じゃあ行くしかないだろう。なにもこれをやめようと言ってるんじゃない。また出なくていいように買い貯めればいいんだ」 「…………」 安室透は、ずいぶん長いこと黙り込んだ末に、もぞりと首を動かした。縦に。 ところが今度は準備をしようと向かったクローゼット前で渋り出した。服を着るのを、正確には服を着るために手錠を外すのを。 家の中ならマッパだろうと構わんが、明らかにひと目のある所で半裸の男二人手錠をカチャカチャ言わせて歩くのはまずいだろうと説得したものの、またそれで逃げる気だとか僕が嫌なんだとか殺せとか喚き出したのである。死なないでとも言うが、どこの誰が手錠外して服を着たぐらいで死ぬんだ。むしろ半裸で行って不審者として通報された方が俺のメンタルが死ぬ。せめて服だけでも着たい。 「わかった。じゃあきみが着替えさせろ、俺が逃げられないようにして。俺は言う通りにするから」 ハンズアップした俺に、安室透は目を瞑れと言った。バリバリとビニールを破るような音を立てたかと思うと、俺の瞼を布で覆い、それを後頭部で結び、手を引いて歩き出した。落っこちそうになりながら階段を下りた先、安室透が足を止めたのは、歩いた向きと歩数から考えて納戸だ。工具があるからか。たどり着くと、安室透は俺に腰を下ろすように言い、足首を縛ってきた。 手錠が外されたのは一瞬と言っていいほど短い時間。袖を通してすぐさまカチャリと再度嵌められた。それから安室透は、手錠を弄るのとは比べ物にならない緩慢な手付きで、ゆっくりと俺に服を着せていった。 正直袖だけで嵌め直すくらいだったらもう残りは自分でやったほうが早いとは思うものの、ひとまずされるがままにしていたのだが、安室透は恐らく自分も着終えただろう頃になってもなかなか足首の拘束と目隠しを解かなかった。 「……どうした?」 「……」 黙って首に抱きついてきた。普段から何考えてるのかさっぱり分からんが、顔も見えないんじゃ余計だ。 安室透は、しばらくの間ずっと黙ってそうしていた。 しかしちょっとコンビニくらいの気持ちで出たはずが山を降りるのに車で一時間以上、安室透がそこはダメだとか嫌だとか言い出すお陰で店を見つけるのに更に小一時間かかってしまった。 道中、以前はぷらぷらさせていた安室透の手は俺の左手首をがっちりと握っていて、汗が滲み、ずっと小さく震えていた。 安室透のオーケーが出たのは、地元の人間がちらほら居るだけの、やや寂れた田舎のスーパーだ。 念のため目立たないようにとそこらにいそうな服装をしたはずだが、手錠が見えないように二人分の手を俺の上着のポケットに突っ込んでいるもんだから既にゲイカップル疑惑不可避なビジュアルだ。それに加えて安室透はフリーな方の手も俺の腕にしがみつくよう巻きつけてきていた。もはやラブラブカップルの域である。断じて違うが。 立っているのがつらいのかと思えばそうではないらしい。やたら緊張した面持ちで周囲をきょろきょろと見回している。 「あの男あなたを狙ってる」 俺の何を? ケツを? ノンケでも食っちゃう男が分かるのか? 耳打ちするよう囁く安室透の視線の先にいたのは、地元民らしきおっさんが一人。隙だらけの立ち振る舞い、かわいい方のクマさんに似た体は鍛えられたものではなく、そもそもこちらを気にした気配もなく陳列棚を前にどのカレールーにするか迷っているだけの様子だ。どこからどう見ても一般人。 「ただの客だ」 「あなたは知らないから。あなたの命を刈り取る人間がどれだけいるか」 「だがここにはいないだろう」 「ジン、ベルモット、コルン、キャンティ、カルバドス、森本、久保、諏訪、井上、ブラウン、ガードナー、マクスウェル――」 メルヘンさんたちはいいとして誰なんだそいつらは。一部FBIにもそういう名前のやつはいた気もするが。 「誰を潰してもだめなんです。役割を別の人間に渡すだけだ。叩いても叩いても出てくる。あなたの死という結果さえ得られればいいみたいに。誰も信用できない、誰だって控えの役者なんだ、おれだってそうだ」 なんだか奇妙な物語みたいなことを言い出した。ゆんゆん。 俺だってどのカレールーがいいか分からなくて迷っていたのに、安室透はそんな調子で何を買えばいいかいくら聞いても答えないので、ルーの他も、ともかく作れそう食べれそうで日持ちしそうなものを片っ端っからカゴに入れていくしかなかった。 支払いの金はあの家に置いてあった分だ。ちょっと特殊な名義のカードも持っているらしいが、できるだけ使いたくない。こんなことになるとわかっていれば俺ももうちょっと現金を持ってきたんだが。 ついでにスバルはそんなに荷物が積めない。こういうときこそシボレーの本領発揮だというのに残念燃えちゃったのよね。しょうがないのでぐずる安室透をどうにかこうにかなだめすかして、一度戻って、再度別の店にも行った。これでまたしばらくはもってくれるだろう。 「――ねえ、今のあなたは、僕の名前知ってるんですか?」 「それは、どの?」 「ほんとうの名前。戸籍に載った名前。僕のはじめての名前。僕が無邪気だった頃の名前。何を被ることのない、何を偽ることもない、何も纏うことのない、僕のはだかの名前」 そういえば、公安だということは本人から聞いていたものの、それ以上詳しい情報は知らない。調べる暇がなかったわけではないが、機会がなかった。コナン君がえらく警戒していたから、何か動きがあるようであれば一応手を付けようとは思っていたが。 ――知らない、はずだ。 ちりちりと、頭のどこかに走る違和感は、きっと別の何かに対するものだ。 「……知らないな」 素直に答えれば、そいつはくすりと笑った。今までのへらへらとしたものとどこか違う音色で。 「れい。れいって言うんですよ」 「どう書く?」 「それは教えてあげません。忌み名をあげたら支配されるというでしょう。意味を知って響かせたらだめなんです」 「……それがそうだと?」 「違いますけど、似たようなものです。あげられない。あげたら、僕はあなたの言う通りにあなたの行動を認めなきゃいけなくなる。あなたの言う通りにあなたを見送らなきゃいけなくなる。あなたの言う通りにあなたを諦めなきゃいけなくなる。あなたの言う通りにしたくなってしまうんだ。してしまったんだ。――あなただけはいやです。今のあなたにだけは従いたくない」 よく分からんが随分嫌われたもんである。 そんな感じで、帰りの車内も安室透はゆんゆん話を炸裂させながら俺の手首を握り続けていた。 家についてから荷物を運び入れるのも一苦労だった。なにしろへろへろなもんで一度に持てる量が少なく、スーパーのように台車もないから何往復もするハメになったのだ。終わった頃には安室透の息は切れ切れだった。全部玄関に置きっぱなしだが、ちょっとしばらくはそのままにしておくしかない。 「ありがとう、れい」 いやだいやだ従いたくないと言う割には、持つのを手伝ってくれたしいちいち解錠してもくれたのだ。礼を言えば、安室透――れいは、俺が受け止めきれず倒れるのもお構いなしにガバリと抱きついてきて、それからめそめそと泣き出した。 「……ようやく……ようやく、ようやくなんだ、お願いだ、ここにいて。ずっとここにいて。ずっとこうしててください……」 流石に廊下でずっと寝っ転がってるのはどうなんだとも思ったが、とりあえずは頷いて、やや伸びた金の髪を撫でる。 れいは、ゆるりと笑った。眉を下げ、目を赤くし、頬を涙で濡らしながらも、随分綺麗に。 |