PROMISED LAND

 リビングに戻った時、ぎゅう、と音がした。安室透の腹あたりから。

「食事を摂っていないのか」

 そういえばどことなく痩せている気がする。ふらふらしているのもそのせいかもしれない。
 万全ではない状態を想定してのものか、保存食の中には粥のレトルトもあった。それを思い出してキッチンへ行き、パウチを湯煎して皿に出し、スプーンを添えてテーブルに置いてから、安室透をダイニングチェアに座らせた。利き手を動かせるように俺の左手をなるべく近くに寄せてやる。
 しかし安室透は俯いてスプーンを取ろうとしなかった。

「腹が減ってるんだろう」
「どうせお前だって食べないくせに」
「食べる食べる。だからきみも食べろ」

 嘘つき、嘘つき、というので、とりあえず右手でスプーンを使い、自分の口に放り込んでみせる。もう一口を掬って安室透の口元に差し出すと、一拍して、安室透はゆっくりとそれを咥えた。
 両手は握り込んでテーブルについたまま頑なに動かさないもんで、雛鳥よろしく全部あーんしてやる羽目になった。時々「あなたも」と見上げてくるから、スプーンは俺の口と安室透の口と皿とをせわしなく行き来した。

 一人前を二人で平らげ、食器の片付けを終えてから、いい加減動きづらいし外すかと手錠を弄ろうとすれば、安室透はひどく嫌がった。

「どうして? どうして取ろうとするんですか? やっぱりいなくなるつもりですか? 僕を殺さずに? また僕を置いていくんですか? 離れたいんだ、逃れたいんだ、僕から。行くつもりなんだろう! また!」
「いや、きみも動きが制限されるし、このままじゃ支障が出るだろう。風呂やトイレまで俺に見られたいのか?」
「だめなんですか? 僕だから? おれが嫌なのか? 僕のそばは耐えられない?」
「俺じゃなくきみが……」
「どうしてそんな卑怯な言い方するんだ! おれが嫌ならそう言えばいいのに! 言えよ! うんざりだって! お前に捕まえられるのは嫌だって! おれの手なんて取りたくないって! 僕と生きたくなんかないって! 僕に、共に生きるだけの価値なんてないって!」
「そうは思ってない。すまない、ただ――」
「謝るなよ! やめろ! それを言うな! いやだ、いやだいやだ、やめて、やめてください……お願いだ、撃たないで……」

 仕舞いには頭を抑えながらしゃがみこみ、またしくしくと泣き出してしまった。とんでもない情緒不安定さんである。なかなか難しい。
 引っ張られて膝を折らざるを得ず、ついでに安室透はテコでも動かんと地蔵のようになってしまったので、それから数時間何も出来なかった。嗚咽で震える背中をぽんぽん叩きながら脳内で円周率や素数や羊を数えたり一人しりとりをし続けたが死ぬほどつまらなかった。

 別段運動したりするわけじゃないにしろ、代謝の都合上、生きているだけで人間の体は汚れる。さすがにずっとシャワーもなしは厳しい。仕方がないのでシャツの袖は切った。安室透も文句は言わなかったからいいんだろう。
 口はやたらと回るくせに自分でやろうとしないもんだから、安室透のぶんまで体を洗ってやり、タオルで拭き上げもしてやることになった。パンツとズボンを履いて、シャツはもう面倒だから着なかった。そう寒い時期でもないはずだ。片腕だけでも通すかと聞いたが、安室透も首を振った。
 バスルームを出ると安室透はへろへろで、肩を貸せば数歩歩いたが、膝に力が入らないようで崩れ落ちた。なんだかいつだかと逆である。抱えて引きずりながら二階へ上がり、ベッドへ横たえてやると、安室透はぐったりしながらも腕を引っ張ってきた。

「おい、何なんだ」

 そのままさわさわと体を触ってくる。腕を辿り、肩を通り、胸や腹を掌で撫でてくる。背中にも回り込んで、パンツの隙間に入り込んでケツまで揉んできた。まさかそっち系なのか。

「生きてる、生きてる、生きてる……」

 背骨を指先でなぞられるとぞわりとする。安室透の手は、項まで登ると、今度は髪をぐしゃぐしゃとかき混ぜ、頭や顎の形を確かめるように這い回って、鼻や唇をつまんできた。米神や耳は特に何度も何度もなぞってくる。
 安室透はそうして俺の体を触りまくった末、瞼を閉じて意識を失った。眠ったらしい、すやすやと寝息を立て始めた。一体何なんだ。
 隣で寝っ転がって様子を見ていると、安室透は数十分や数時間間隔で目を覚ましてはしこたま俺の体をまさぐって眠りを繰り返した。目を瞑っていてもうーうー唸って汗を浮かべ、何度も何度も寝返りをうつ。その度俺の手が引っ張られて、時折邪魔だとでも言うように振り払われる。そんな理不尽な。
 起き上がったときにもいまいち疲れが取れていなそうな顔だったが、もういいからと寝る前よりはしっかりとした足取りでリビングへ降りた。多少は回復したらしい。


「くさい、くさい、まずい、くさい」

 食事を作ってやると、安室透はそう言って鼻をつまみ、皿を押しのけ、スプーンを放り投げた。レトルトだし賞味期限が切れてるわけでもないから、そうひどいものじゃなさそうだが、好みの問題か。
 しかし下げようとすると腕に縋り付いてきてすんすんと泣き出した。

「いやだ、捨てないで下さい」
「食べられないんだろう」
「あなたが作ったんだ、だめだ、捨てたらだめ、あなたが僕に作ったんだ。捨てないで。食べる、食べるから、あなたが食べさせて」

 そう言われて、毎食毎食全部あーんで食べさせることになった。なんだか飼育員の気持ちになる。

 回を重ねるごとに安室透はにこにことスプーンを咥えるようになって、美味しいと言うことも増えた。米は炊くが他は全てレトルト、美味いと言うときに食ってるものの種類はまちまちで、何が違うんだかわからん。
 ごちそうさまと言ってから、安室透が眉根を寄せはじめればトイレに連れて行ってやる。安室透は、食後には三回に一回、いや二回に一回くらいの割合で吐き戻すのである。美味い美味いと食ってもだ。難儀なもんである。
 胃酸の匂いは強烈だ。たまに俺ももらいゲロをすることがあって、そういう日は地獄絵図だった。良い年した男が二人で便器を囲んでゲロゲロ言ってるのである。俺も流石にゲロ吐いているときまで配慮してやれず、吐物が床に散ったこともあった。処理でだいぶゲンナリしたので以降は気をつけているけども。

 それにしても、俺の家に度々やってきては炊事洗濯掃除とオカンじみたことをしていた男とは思えないほど、安室透はそういった生活に必要な行動を取ろうとしなかった。メシも風呂も掃除も洗濯も俺、安室透はそれに付いてきて、終われば大抵ソファや床に座り込んで膝を抱えているか、寝っ転がっているだけだ。俺も体が重くて動かないときには二人して生きる屍状態になっていたりもする。
 安室透は日がな一日ぼーっとしていたかと思えばつらつら何かを喋りだして笑い出し、かと思えば急に怒り出し、俺に当たり散らしてはぐずぐずと泣く。秋の空もびっくりだろう。癇癪持ちの女性もここまで乱高下しないんじゃなかろうか。
 時間を持て余しているものの、タバコは早々に切れてしまったし、暇が潰せそうなものはテレビくらいしかない。テレビを付けた際、安室透はおとなしくなったり、ケラケラ笑いながら見る日もあれば、うるさいうるさいと言って逃げるように寝室へ駆け込んだりする日もある。なかなかパターンが読めない。
 何かある度引きずられるもんだから手首は痣だらけだ。俺も安室透も。だが手錠を外そうとすると嵐と言って差し支えないほど荒れに荒れるのでもう諦めた。
 食っちゃ吐きするせいで安室透の顔色はいまいち良くならない。挙動も相変わらずフラフラだ。頬の肉も体の肉も、安室透の時点でどうだったかは知らないが、バーボンであったときから比べて随分削げ落ちた気がする。点滴でもぶち込んだほうがいいんじゃないかと思うが、残念ながら輸液の類もない。これまたあったとしても俺では処置できん。さいきょうのカード聖トモアキが切れないのは非常に痛い。

 そんなことを気にしている様子もなく、今日も今日とて安室透はソファで体育座りをしてゆらゆら揺れていた。つられて床に座る俺の腕もプラプラ揺れる。

「今日何の日か知ってます?」
「いや」
「お前の命日」

 それはぶっ転がすぞ宣言なんだろうか。
 安室透はしばしばそういうことを言った。

「俺は何回死ねばいいんだ」

 そう軽く茶化すつもりで返せば、安室透はひどく動揺して、ソファを飛び降りて腕に縋り付き、押し倒さんばかりの勢いで腰に抱きついてきて、実際押し倒してへばりつき、またわんわん泣いた。

「いやだ、いやだ、死なないで、お願いだ、生きてくれよ、死なないで、もういやだ、死なないで」
「死なん。きみが殺さない限り」
「そうだ、僕が殺した。いつだって殺すのは僕だ。おれはお前の死で始まる。僕が殺してるも同然なんだ。おれがお前を殺すんだ。僕のせいでお前は生きられない。ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」

 壊れかけのレディオどころの話でなくごめんなさいと繰り返すのは圧巻だ。よくぞそんなに舌が回る。元々そのケがあった加害妄想が随分立派に育ったらしい。加賀ちゃんもびっくりだろう。もしかして雛見沢症候群なのか。

「あー……いや、きみが何をしても死なない。俺はしぶといから」
「嘘つき。ちっとも本当のことなんか言いやしない……」

 すまんかった。だが謝るとこれまた喚き出すのだ。仕方ないので頭を撫でると、額を腹にぐりぐりと掘るよう押し当ててきた。
 その干からびかけの体のどこにそんなに溜まっているんだというほど涙を流すもんだから、俺の腹もべちゃべちゃと濡れていく。機を見て水分を摂らせないと。

「おかえりって言って」
「出てもいないのにか」
「言って」
「……おかえり」
「違う、おかえりなさいって、安室さんって言ってください」
「…………おかえりなさい、安室さん」
「違う……」

 違う違うと首を振られてしまった。安室監督厳しいな。しかももう一度言えばもうやめろと怒られてしまった。
 怒られては謝られ、罵られては縋られて、纏わりついてぐすぐす泣かれるのももはや日常茶飯事だった。
 幻聴なんて目じゃない。たまに俺が意識を失うと、もはや俺の言葉なんてまったく耳に入らないほどとんでもなく泣き狂うのだ。その後しばらくはうかうか横にもなれない。いつの間にか頭に響くのはこいつの泣く声とノイズばかりになっていた。



「ねえ、ねえ」

 うとうとしはじめたためベッドまで運んでやれば、安室透は毛布の中から俺を見上げ、そう言って腕を引っ張ってきた。

「あなた、だれなんですか」
「赤井秀一だが」
「違う」
「……ライか?」
「嘘だ、嘘だ、お前じゃない」
「じゃあ誰だと思うんだ」
「分からない、分からないから聞いてるんです、あなたはあいつと違う、あなたは生きてる、あなたはすり抜けない、あなたは僕を捨てない、あなたは僕を見てくれる、あなたは僕の手を取ってくれる、あなたはここにいてくれる」
「……そうだな」
「あなたがいい。初めてなんだ、こんなことしてくれたの。あなただけなんだ」

 ベッドに入れと言わんばかりにぐいぐい引っ張ってくるので寝転がれば、安室透は重なるよう上に乗ってきた。そのまままた俺の体をさわさわと触りだす。それで寝れるんなら良いが、尻を揉むのと乳首摘むのはちょっと勘弁してもらいたい。前を触るのも。

「ん、んん……」

 近頃はお触りに加え首筋や鎖骨なんかを中心に、全身ガブガブ噛むようになってきた。俺の肉なんて栄養はないだろうから食うなら飯にして欲しいもんである。

「僕のこと、好きですか?」
「ああ、ええと――まあ、好きだ」
「どのおれが?」
「ここにいるきみが」
「僕が? おれが? 本当に? 誰もいないだろ、僕はいない、ここにはおれだっていやしない、お前はそんなこと思ってない、あなたは僕を認めたりしない、どうせいなくなる気だろ、嘘つき、嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき」

 だめだったか。しかしこれで好きじゃないとか嫌いだとか言うとまたしくしく泣くのだ。正解が分からん。シミュレーションゲームみたいに選択回答式にしてほしい。イベントスキップ機能もつけてくれると尚良いんだが。
 安室透は不意に俺のスマホを取って、カレンダー機能を開いた。もうあれから三ヶ月ほど経っている。せめてコナン君に連絡を入れたかったが、安室透に電話帳もデータフォルダも全削除されて、データ通信も切られてしまったのだ。探されてるかもしれんな。ミイラ取りがミイラになったと思われていること請け合い。

「ねえまた、ほら、あなたの命日だ」

 そうかそうか良かったな。
 頭を撫でてやれば安室透はにこにこ笑って、それからまたぼろぼろ涙を流し始めた。嗚咽に混じって、じじ、と、ノイズも聞こえる。
 ううん、なかなか治る兆しが見えない。かなり長期戦になりそうである。


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