08

 顔を上げると、浮き出ていたらしい汗が、つうと鼻の横を滑った。顎先にも似た感触。恐らく床に滴っている。首から下も同様で、服が体に張り付き、少し動けばぐちゃりと湿った布特有の不快感があった。
 窓の外、少しだけ近づいて見たところ、眼下はまだ静かなものだった。いつまでそうしていられるかはわからない。何者かが通りかかり“それ”を見つければ騒ぎになるだろう。
 足元に転がった薬莢を拾おうと手を伸ばすと、重力に従って長い髪がざらりと垂れてくるのが鬱陶しい。出来ることならば切りたいと、ずっと思っている。
 円筒形の金属二つをポケットに収めたとき、背後の、細工をして封じていたはずのドアがガチャリと音を立てた。反射的にジャケットの内から拳銃を取り出して、振り向くと同時に音の方へ向ける。
 なんだ、持ってるじゃないか――奇妙な思考が湧いてきて、それは疑問を抱く前に男の声に掻き消された。

「悪い、驚かしたか」
「……いや」

 アイアンサイトに捉えられたのは任務を共にする男だった。
 銃を仕舞えば男が安堵の息を吐く。挙げていた両手を下ろし、下は大丈夫だ、と言った。それから俺の傍にやってきて机に置いていた双眼鏡を取ると、窓に寄り外を眺める。

「……ちゃんとやったみたいだな」
「ああ」

 手伝おうかという男の申し出を断り、さっさと荷物を片付けて纏め、ケースを背負い、男と共に確保していたルートを辿って、建物とその地区から抜け出し車に乗り込んだ。
 取り決め通り男は運転席に座り、あまり慣れているとはいえない手つきでエンジンをかけ発車させる。目視やミラーで追跡がないか警戒を行うのは俺の役目だ。
 ステアリングを操作しながら、男がちらりと、助手席の俺を見た。

「初めてか? 殺したの」
「いいや」
「じゃあなぜ?」

 なぜ。随分曖昧な問いかけだった。回答者に主旨の設定を委ね、その内容によって相手の関心や信条が伺える。子どもでもやる手法だ。
 馬鹿正直に答えてやる必要はなかった。男もそう安々乗ってくるとは思っていまい。にもかかわらず言葉にしたのは、自分としても慮外なことだった。

「――いよいよ、かみさまの元へ近づいたから、だろうか」

 男は目を瞬いて、意図を理解しかねるとでもいうように唇を少しだけ噛んだ。しかしその、唸り声でもあげそうな表情は一瞬で、すぐさまへらりと笑う。

「なんだ、お前結構信心深い?」
「ああ、たぶん、とても」

 そうだ、はじめてじゃない。何度だってあったことだ。けれどあれほど動揺したのは、あれほどかき乱されたのは、あれほど罪深さを感じたのは、確かに一歩、己の足が境界を越えているのだと、階段を登ってしまったからだと、自覚させられたからだったのかもしれない。その先に待ち受けるものを、同時に消え去ったものを、まじまじと見せつけられたからだったかもしれなかった。

「……ここじゃ、あんまりそういうの、考えないほうがいい」

 男はどことなく憐れみすら滲むような、感傷的な声色で呟く。
 それから、片手を懐に入れ、探り当てて掴んだものを俺に寄越してきた。
 マッチと、弓矢のイラストが印刷された箱。

「希望を持って図太く生きよう、ってな」

 残念ながら俺達は、羽もないし、可愛い幼児でもなければ、撃つのも恋の矢じゃないが――そんな事を言って、俺に笑いかけてくる。
 つり上がった切れ長の目と柳眉、すっと通った鼻筋に顎髭。冷たさすら感じさせる顔立ちであるのに纏わせる雰囲気と印象が穏やかなのは、表情と瞳の色によるところが大きかったように思う。言動には人懐っこささえあった。
 その時は、酔いを想起させる洒落た呼び名も持たない、ただどこにでもいそうな日本人だった。

 受け取った煙草は封が開いていて、傾けて覗けば紙筒がころりと転がった。既に数本吸っていたらしい。一本咥えて火を付け、軽く吸うと殊の外重みがあった。

「……ありがとう」
「それやるから、今度新しいの買ってきてくれよ。そうだなあ、ピースとか」

 希望と平和、肺癌にもならなそうだ、なんて。随分脳天気な話だと、それを受けて吐いたのは溜息だった気がするけれど。
 満更でもない、悪くない。煙と一緒に淀みも全部、この体から抜け出て、跡形もなく霧散してしまえばいいのに――。
 そんな思いも、ちらとだけ湧いたのだ。


 そいつだって死んだ。
 唯一成し得た気でいたことだって、結局そんなものだ。俺に変えられることなんて、所詮些細な支流の幾つかだけ。それも水面を掻くだけ、ただ荒らして濁らせるだけ。
 そんなの知っていた。分かっていた。


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