09

 扉を開けるのが恐ろしいと思ったのはいつぶりか。
 きっと試験のときだって、長官のオフィスを訪ねたときだって、あの幹部の車に乗るときだって、少女の待ち受ける隣家の玄関でだって、そんな思いはなかった。
 やたら分泌される唾液を、その割には乾いた喉に押し込んで、やや湿った手で取っ手を掴み、ゆっくりと引き戸を開けた。
 部屋の奥、ベッドに横たわる姿に心臓が跳ねる。
 あのとき慌てて駆け下りた先にあったのが、仲間に抱えられ、衣類に大きく血を滲ませぐったりとしていた彼女の姿だったから。
 命に別状はないとは聞いていた。障害が残るものでもないと。それでも伝聞では安堵が得られずに来てしまった。図々しくも見舞いに行って困らせたのはそう昔のことでもないし、覚えていたというのに。

 眼鏡を外して目を閉じた顔は、いつも豊かな表情が削げた分幼くも見え、同時に生気から遠のいて見える。それがぞわりと、背筋の神経を直接撫でられるような感触を呼んだ。
 しんとした室内で、どくどくと喚く自分の拍動が煩い。それだけせわしく動いてるのに血が足りないのか、頭がくらくらする。力が抜けそうで足が震える。
 彼女の身を抉る弾丸を放ったのは、俺じゃない。だが俺が撃ったも同然だった。俺が撃たなかったから彼女が撃たれたのだ。一歩間違えれば、俺とあの男が少しでも銃口を逸らしていれば、あの悪夢通りに、この見かけよりも柔らかな金髪が地に散っていただろう。美しい肢体は、何の温かみも、僅かな呼吸や血流も持たないものへと成り果てていただろう。
 情けない、不甲斐ない、臆病者、卑怯者、恥知らず。俺がこうしたくせに、いつだって被害者面して尻込んで、掻き回すだけ掻き回して、これっぽっちもましなことが出来ない。そんなことを思い出したくなかった、こんなこと知らなかった――未だにそんな甘ったれた、都合の良いことを考えているのだ、愚かな脳。人間のかたちをしているくせに、二つの足で地を踏み身に脊椎を通し重い頭蓋を載せているくせに、よく出来てなんかいやしない。

 ぼやけ滲む視界の中、ふるりと金色の睫毛が揺れたかと思えば、瞼は殊の外ぱちりと開いた。
 水に広がる絵の具のよう、細く小さく散らばるよう、しかしフラクタルに、緑や黄も混じらせながら青色を織り上げる虹彩が、きゅうと締まった瞳孔に引き寄せられてその面積を広げる。濁りのない、澄んだ色は、俺にまっすぐ向けられていた。

「この世の終わりみたいな顔」

 化粧もなく白い肌は、口角が上がったことでようやく皮下の血流が滞っていないことを示した。
 ジョディは肘を曲げて脇につくと、のたりと上体を起き上がらせた。体に障るだろうと遮りたかったが、腕は全く上がらなかった。多分上がっていたって触れなかった。
 彼女の、珍しく朱の引かれていない唇が開いて、すう、と息を吸う。布越しでもふっくらとした胸部が、確かに空気を取り込んだことを教えるよう、小さく膨らんだ。――動いている。

「私の言葉で揺れたんでしょう。仕事に影響を出したのは謝るけど、言ったことは取り消さないし、あなたにも謝らないわ」

 当たり前だ。非のない者が頭を垂れる必要などない。返す言葉なんてありはしない。

「全部話してちょうだい」

 約束したでしょう。そう言って、彼女の細い指が、俺の腕を引く。するりと下りて掌を握り、包み込むようもう片手も添えられる。

「少しは知っているつもりよ、新出医師から聞いたわ」
「……先生から?」
「でもちゃんと理解したいの。あなたの考えること、考えられないこと、その頭と体と、あなたが自覚する、あなたを取り巻く全てを教えて。どんな突拍子無いことでも笑わないわ、どれだけ些細にもとれる響きでも、あなたが苦しみを感じるというのなら、それは重大な問題だし――私にとってもそうだわ」

 あなたの気持ちをちょうだい。
 あなたの記憶をちょうだい。

 しっとりとした声が、切実さを孕みながら耳を打ち鼓膜を震わせ、脳へと染み込んでいく。

「私のことをどうでもいいと思っているのでなければ、私があなたを痛ませうるというのなら、私のために心を割いてちょうだい」

 ――もういいか、と思った。
 寄りかかって一人で倒れたところで、なんだというのだ。今までだって地を這っていたようなものだった。そのまま転がって、泥でも礫でも食めばいい。


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