07

『そちらはどうだ、赤井君』
「問題ありません」

 事実だった。壁と椅子に擦り付けた体は微動だにしない。そのインカム越しに命令を下されない限り、これより他にすべきことはない。そう、体は。

 頭の中はひどくせわしくやかましい。その割に同じことがぐるぐると駆け巡るばかりで、鬱陶しくて仕方がない。けれどそう思うことすら罪悪を募らせる。

 トーヤ。
 ――俺のことだ。

 近衛十夜――それが俺だった。

 彼女のたった一言が、ガツリと頭部を殴りつけるように、堰き止めていた何かを取り去り、これまで封じ込めていたそれらを、俺の脳へと雪崩れ込ませた。余計な分まで誘い纏わせ張り付かせながら。それからだ、それからずっと、濁った思考がぐちゃりぐちゃりと脳を掻き回し乱している。

 近衛十夜、ここにはいない男だ。
 だが真実俺の名だ。
 じゃあこいつは、ここにいる男は?

 じとりと、嫌な汗がにじみ出たような感覚がする。はあ、と、己の吐いた息がやけに鼓膜を叩く。

『出てきたぞ。うまくいくと良いが――』

 スコープに映るのは男の姿だ。スーツを着て、やや恰幅のいい初老の男性。降谷零が事前に調べ上げ、渡してきた写真通りの男。そこらの週刊誌や新聞にも乗る程の男だ。情報端末のある部品を製造する会社の社長。ラムに繋がる男。
 降谷零はご丁寧にも組織のソの字もないような、全くもって犯罪の残滓すら感じさせない男のプライベート部まで徹底的に調べ上げている。そうしてそれを、作戦に携わる主要な人間はみな同等の情報を保持しておくべきだと、部下を経由してジェイムズたちどころか俺にまで懇切丁寧伝えてきていた。子どもが二人、趣味はゴルフ。羽振りがよく目下へ奢りたがる。そんなもの、俺に教えずともよかったのに。
 作戦の主旨としては単なる身柄の確保だ。順当にいけば俺の出番などない。俺は万が一の援護要員だった。
 けれど。

『……なに?』

 敵対する人間であるとは知り得ないはずが、男は殊の外地上の面子に警戒した様子を見せた。

『いかん、赤井君』

 男がビジネスバッグから取り出したのは拳銃だ。この日本でどうやって手に入れたんだとは、男に関しては聞くまでもない。組織の連中が手を回していたのだ。しかしそれだって、優秀な彼と少年の予測の内だった。――そのはず。

『赤井君、頼む』

 はい、と、声にならなかった。
 引いたはずの指は一ミリも動いていない。
 レティクルが滲んで見える。その十字の、地に平行な線にかかる人間は二人いた。男と、――金髪の女。
 途端にぶわりと湧き出る。

  ――おねがいよ、トーヤ。

 彼女の言葉だった。悲痛な声で、俺に確かにそう言ったのだ。

  あのこをおねがい。

 彼女の言葉だった。ただ己の願望かもしれない、言ったかどうかもわからない言葉。

  おねがい、おねがい、おねがい。

 二つのそれが幾度も湧いては、畳みかけるよう、重なるよう、雨粒のように次々と耳を打つ。

『どうしたんだね』

 どくどくと、心臓の跳ねる音が馬鹿みたいに激しくなって、耳につけた機械越しの声さえ掻き消そうとしてくる。ひゅうひゅうと苦しげな息も。
 はあ、はあと、もう一つ荒く響くのは自分のものだった。

  “やれ、どうした、怖気づいたか”
 上司とは違う下品な声。そんなもの鳴っていないはず。

  “撃て、許可する、撃つんだ”
 演技がかった若い男の声。まるで背後から飛ばされたようなそれだって、鼓膜を震わせていやしない。

『赤井君』

 そうだ、赤井だ。赤井秀一は撃たなければいけない。赤井秀一は撃つべきだと断ずる。赤井秀一は撃つ。この状況においてはそれが最善で最良だと弾き出す。赤井秀一は迷わない。決断から実行まで素早く滑らかに移り、女にはかすりもさせず、寸分の狂いもなく男の元へと弾丸を届ける。五メートルも離れた人間になど撃ち間違える訳がない。赤井秀一なら。だが、俺は。
 男と女は互いに銃を向け、小さな身振りで、何か言葉を交わしている。その足が一歩ニ歩と近づいて、撃ち損じないための計算に、体の動きに、緻密さを要するようになっていく。

 ぱん、とやや遠くで鳴った破裂音。
 それに釣られるかのように指は引鉄を引いた。

 ――失敗した。

『まずい』

 女は倒れていた。
 それを見下ろすようにして立つ男は、未だ銃を持ったままそれを女に向けていた。

 よせ、やめろ、待ってくれ、そいつは違う。
 頭を巡る雑音に混じっていたのは俺の声だ。お前がやったくせに。お前のせいだろうに。あたかも被害者のような言い様で喚く。

 躊躇は暴発に等しい。どころかそれ以上の災厄を齎す。何をしている、もたもたするな、やるべきことは分かっているはずだ、為せるだけの手も持つはずだ。
 そう叱責するのも俺の声だ。

 排莢と再装填は素早く済んだ。けれど狙う先が定まらない、指が、肩が震える。はあ、はあと、いくら吐いてもいくら吸ってもうまく整わず、体が安定しない。
 弾丸一発で痙攣一つ起こさせずに人間を即死させようとすれば、狙うべき場所は一つ。それ以外の箇所ではたとえ心臓を撃ち抜かれたとしても十秒ほどは戦い続けることが出来る。知っている、俺が言ったんだ、端から知っていた、知っているはずだ、狙うべきは――


『――トーヤ、手を撃って』


 スピーカー越し、不意にすっと耳に入り込んできた彼女の声が、今まで喧しく響いていたありもしない音たちを全て拭い去った。

 震えがぴたりと止まる。

「わかった」

 改めて銃身を支え直せば、レティクルは容易に調子の取れる平静な揺れを取り戻した。引き金は撫でるような動きだけで弾丸を発射する。それは狙い通りの場所へ吸い込まれてゆき、いとも容易く男の手中から凶器を弾き飛ばす。
 その瞬間、女が立ち上がり男を蹴り倒した。
 地に伏した男はあっという間に取り囲まれて無力な人間へと成り果てる。
 それだけ、たったそれだけのことだった。


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