B02

 きょとりとして見上げるそのさまからは、その瞳に映るものをどう認識しているのか、正確には伺えない。目の前の女の顔を覚えているのかいないのか、それすら。

「彼女はベルモットですよ」
「べるもっと」

 己の定められた任務通り、彼女のためにもなるだろうと差し挟んだ言葉には、「ちょっと」と不満げな声が返された。

「余計なこと教えないでちょうだい」
「余計=H 名を教えるのがですか?」
「そうよ」
「僕をこの子に紹介してくださったのは貴女だったと記憶していますが」
「私とあなたのそれが同等だなんて思ってるの?」
「いいえ、まさか」

 肩を竦めてみせれば、睨めつけてくる視線の強さは和らいだ。不筋に感じる言いざまは彼女お得意の、彼女自身にしか理解できない、理解させるつもりもない秘密≠ノ則したものであるのだろう。
 唯々諾々と諂い下手に出てばかりでいるのでは侮られ軽視されるし彼女の好みにも合わない、しかし無闇矢鱈に無粋な詮索をし機嫌を損なうのは尚更よくない。
 僕は彼女の秘密≠握っている。――それを彼女も知っているのだ。出来うる限り慎重になるべきだ。切り札とは得てして扱いを間違えれば己に牙を剥き、致命傷を負いかねないものである。

「要らぬ智慧はつけないことね」

 ベルモットはするりと僕から視線を外すと、それをそのまま子どもへと移した。
 未だに椅子に慣れないため床に座り込むしか出来ない子どもと目を合わせようとすれば、必然的に屈むか膝をつくか、子どもと同じ体勢を取らざるをえなくなる。ベルモットは汚れを忌避してか隙を減らすためか、靴底のみを床につけ、曲げた己の膝に寄りかかるような形でしゃがみこんでいる。
 子どもに向けた腕の先、白い手のひらを開く。そこには一錠、やや大きなカプセルが載っていた。

「飲んで」

 言葉の意味が分からなかったか、それとも意図が分からなかったか。子どもはこてりと首を傾げた。それから、拙い動きでカプセルを摘み上げ、ぽろりと取り落とした。床に落ち切る前に、ベルモットがぱしりと捕らえる。

「べるもっと」
「力が噛み合ってないわ」

 こちらは明らかに理解が及んでいないだろうことが察せられた。子どもは聞いているのかも定かでないほど声に全く反応を示さず、ただただ彼女の握られた手をじっと見つめていた。

「ほら、あーん」

 その子どもの顎をすくい上げ、紅で彩られた唇を開き手本を見せてやり、子どもが真似してかぱりと開けたところで、カプセルをひょいと口内に放り込む。手ずからものを与えられるなど、彼女に心酔する者達からしてみれば妬ましいほどの光景だろう。
 子どもはわずかに驚いた様子であったが、続けざまに口元に運ばれたコップの水を大人しく飲み干した。いつもより若干行儀がいいように見えるのは、慣れない人間の姿があるからなのか、単に体に疲労が溜まっているか、興味が薄く、あるいはよそへ向いているのか。
 いまいち思考の伺えない瞳が、じわりじわりと光を失っていく。
 それまであちらこちらへと彷徨いていた視線もぴたりと止まってしまった。近頃口癖のように、何かある度、何もなくとも発していた僕のコードネームを音にすることもない。近頃僕に向けるようになった、すこし崩れた、笑顔のような表情も、興奮を示すように歩き回り跳ねることも、ない。
 こういった姿は、何も初めてではなかった。風呂やトイレなどの体の世話をしてやるとき、恐らく強い眠気に襲われているだろうとき、子どもはそうして、元々希薄な人間性をさらに霞ませ、まるで人形のようになってしまうのだ。声を発することなく、何かを視ようとすることなく、問いかけや語りかけへの反応もひどく鈍い。手を引けばつられて立ち、歩き、干渉に合わせて動きはするものの、意志を失ったかのように自らは何も行おうとしなくなる。奇妙には感じていたが、そろそろ慣れも入ってきていた。
 ただ、それが薬効によって齎されるのを見たのは初めてだ。
 ベルモットは、子どもの様子をしばらく観察したあと、懐から小さなプラスチックのケースを取り出して僕に差し出してきた。

「濫用しないようにね」

 受け取ったケースの中には、先程ベルモットが子どもに飲ませたものと同じカプセルがいくつか入っていた。
 子どもの体を維持するために必要だという薬は既にこの先数年は持つだろうほどの量を支給されている。それとは別の、むしろ体を蝕みかねないものがこれ≠ナあるらしい。前者のものも未だ進みは芳しくないが、こちらもうちいくつかを分析に回しておくべきだろう。
 彼女も馬鹿正直にただただ飲ませているだけだとは思っていまい。予備まで手渡すということは、好きにされても構わない、手を付けたところで作りを知るのは困難だろうという思惑からで、事実それだけの複雑さを擁し、根回しを済ませているのに違いない。

「バーボン。この子に出来る限りの情を注いであげてちょうだい。芽生えさせてほしいの。人として必要な、あらゆるものを。この子が上手に人真似をして、人間たちに仲間だと錯覚させ、己もそうであると信じ込んでしまうほど」

 どう反応を返すべきか。
 了承すべきか、問うべきか、それとも拒んで見せるべきか。
 ほんのわずか、逡巡してしまった。その隙にベルモットは更に言い募った。

「――そうすれば、これが傑作で、そして愚かな間違いだったとわかるでしょう」

 脱力しくたりと床に横たわった子どもを見下ろし、その頭を撫でる。
 あたかも慈愛深そうな素振りでもって、女の瞳は冷え切っていた。



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