12

 キルシュは人差し指と中指だけを小さく動かし、ちょいちょいと僕を手招いた。
 あまりに普段通りで軽い様子に、もしやまたゲームの話かとも思ったが、モニターに映るものはそれを否定していた。

「この人物について調べて欲しい」

 “板倉卓”
 キルシュの指が指し示したのは、見覚えのある文字列だ。確か映像作品の特殊視覚効果関係に携わっている人間で、何かの映画でエンドロールに名前が載っていたはずだ。あまりそういったのは見る時間がないから定かじゃないが。
 添えられた写真に映るのは、どこにでもいそうな顔つきの、額が広く、鼻下に髭を生やした、やや痩せた男だ。余裕のある笑みを湛え、ゆったりとソファに腰掛ける姿からは隠す気もない自信が滲み出ている。
 背後はどこかスタジオのセットらしきものが見える。画質や男の態度や視線からしても、テレビの画像か何かをトリミングしたもののようだ。
 記載されていたのは、年齢と性別、学歴や職歴といった簡単な経歴。そんなもので、余白が多い。たった一ページのPDFファイルは1MBもないだろう。

「……どういったことを?」
「きみが得られる限りのことを」

 徹底的に調べ上げろということか。
 キルシュは小さく首を傾げた。

「ああでも、できれば、ラムが喜びそうなやつがいいな。きみなら分かるだろう?」
「……ええ」
「まあ、無理はしなくていい。出来なければ別の人間に回せばいいだけの話だから」

 ラムを満足させられるだけのものを持ってこい、成果を見せられなければそれまで。挑発的ですらある台詞も、彼はそっけなく口にする。
 画面を指差し、データは要るかと聞かれて首を振った。その程度はすぐに覚えてしまえるし、もうこれ以上使うこともないだろう。キルシュは小さく頷くと、僅かな動作でそれを削除した。
 それから徐にチェアをくるりと回して降り、ぺたぺたと隣の部屋へと向かっていく。目にするのはいつもチェアかソファに座っている姿ばかりで、そこを使っているのを見るのはこれが初めてだった。彼が扉を開けた際隙間から窺えた景色からいって寝室のようだ。薄暗い中、それなりに大きなベッドが鎮座していた。
 キルシュはクローゼットを開閉するような微かな音を一度立てると、またすぐに戻ってきた。
 手には厚く膨らんだ茶封筒。彼はチェアに座り直すと、それを僕に差し出してきた。触れた感覚と風体で中身の想像はついたものの、意図が読めなくて困惑する。

「これは?」
「着手金」

 組織の任務をこなすときには足や機器、武器類といった道具を用意されるし、働きによっては報酬としてそれなりのものを貰うこともあるが、大抵必要な経費は都度自分で確保しなければならず、見返りが与えられるのは仕事を確実に仕上げてから。命令通りに動いたところでご苦労もなしというのもザラだ。少なくとも事前にこれだけ渡されることは稀なことと言える。

「情報はタダじゃないし、それを得る手間だってそうだ。無償が無価値であるとか、悪であるとは言わないが、金銭が信仰されている世界で、それに理解を示さず軽視するものの信頼は低いし、扱いも大きく違う。人間と状況によっては時に情より力を持つこともあれば、強い拘束も見せる。あるなら使ったほうがマシだ」
「……それは、そうですが」
「諸費用込みだ。不足分は適宜請求してくれれば出すし、成功報酬と纏めて渡してもいいならそうする。どう使っても問題ない金だが、不安なら自分で洗ってくれ」
「分かりました」

 頷くと、キルシュは一度机の方を向き、キャスターでカラカラと端まで移動して、隅に積んでいたファイルの中から、さきほどのものよりも薄い茶封筒を引っ張り出してきて、それも僕に渡した。
 それも中身は同様に現金のようである。

「……あの」
「メシ代。作ってもらってるだろう」
「多すぎます。金銭の概念を重視するというのなら、適正な価値を図ることも大事なのでは?」
「そうだな。材料費と人件費を引いた残りはチップだ。ものや時間や人の動きに値打ちがあるならば、こころの動きにだってある。――美味しかったから」

 やわい笑みは他意ないものだ。いくら内心が読みづらからろうと、今までの食事風景を見ていれば分かる。さっきだって僕が調理に取り掛かるさまに興味深そうにしていた。

「……勘定は貰う側にだってある権利です。それでも多い」
「ならまたそのうち頼む」
「ええ、それは、いつでも」

 僕の言葉に、彼は満足したようにチェアの背にもたれ、両足を座面に乗せて膝を抱えた。
 茶封筒の裏側には、柔らかく整った筆跡で“ごちそうさま”との文字。これをこの顔で書いたのかと思うと何とも言えない気持ちになる。

「実は――もの自体はラムからだが、俺の個人的な事情も含んでいるんだ」
「あなたの?」

 あの男はキルシュと年代も違うだろうし、テレビに顔を出すような人間とこんな生活をしている彼に関わりがあるようには見えない。僕の考えが分かったのか分からなかったのか、彼はわずかに目元を緩めて僕を見た。

「――俺は、少し、期待している」

 つまりは、足を引っ張らないだけの力を見せろということか。示してやればいいわけだ。損など被らせないことを、むしろ益を齎す存在だということを。
 彼がその期待の分のものを返してくれるのならば、僕にとっても益となる。万が一彼自身はそうでもなかろうと、その背後には深部に浸る人間がいるのだ。
 それに――そうして僕が歩みさえすれば、与えてあげられるはずだ。彼の望み待ち焦がれるものを。

「添えると思いますよ」

 にこりと、とびきりの笑顔を向けてやれば、キルシュはどこか苦味のある笑みを漏らした。


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