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「いいですか、絶対にここの鍵は開けてはいけませんよ。僕が帰ってくるまで、触ったらだめ」 「だめ」 子どもの声は単なる復唱かと思いきや、その意味を理解し、更には別の事柄に当てはめることが出来たとでも言うようだ。あたかも制止を意図した風に、子どもの手が、僕の袖を掴んで引く。 「だめ」 「行かなくちゃならないんです。仕事なんですよ」 「だめ、だめ、いっしょ」 「一緒? ……あなたも行きたいんですか?」 「いく、いっしょ」 普段から無軌道に振る舞い、やたら無意味に言葉を発する子どもだ。けれど時たまこうして状況に合致した言動も見せるため、ほんの少し惑わされてしまう。 意味の通るものに正しく応じずはぐらかすことが発達を阻害してしまうのは本意でないし、いずれ理解が及ぶようになってから人格に響いたことか判明してもかなわない。 一度戻って着替えさせ、僕のサンダルを貸してやると、子どもは意外にも器用にそれを履いてみせた。 「くつ、はく」 「……出来ましたね、えらい」 頭を撫でてやれば、子どもは口端を僅かに上げ、やや自慢げにも感じられる空気を醸す。 自分がやっていることとされていることを本当に理解して、こちらが受け取ったような思考や感情が実際存在するのかは定かではないが、それが出会った当初には見られなかったものだということは確かだ。 子どもは、少しずつ変化をしている。成長や進歩と呼んでよいのかは、分からないが。 道交法を遵守した運転は退屈だったらしい。助手席に乗せて車を発進させると、子どもは早速シートから背を離して手を伸ばし、グローブボックスを開けて中身を漁った。 念の為中にあったアレ≠取り出してホルダーに仕舞い身に着けていたのは正解だったようだ。 やめさせてより危険なことをやられる恐れもある。車検証や電子機器なんかも避難させて大したものは入れていないからとそのままにさせていれば、子どもはクロスをくしゃくしゃに丸めてみたり、ライトをかちかちと点灯させたりしながら一通りのものを膝や床に出してしまうと、説明書をぱらぱらと捲って眺め始めた。 「面白いですか? できれば破かないでほしいですけど……あ、手袋はください」 こてりと首を傾げた子どもに、それ、と指をさしもう一度ゆっくりと繰り返せば、子どもは「てぶくろ」と呟き、視線は合わないながらも、足元にあった白い布を拾い上げて僕に差し出してきた。 「ありがとう」 「ありがとう」 こちらの意図を汲み取れたかのような態度を見せたかと思えば、音だけ同じまったくのオウム返しをする。いつもの事だ。 目的地に着いて停車し、ここで大人しくしていろと言い含めると頷きはしたものの、それも通じたのか怪しいものである。 下車して離れるとよりその不安は強まった。 なんでも触れるものは触れ、動かせるものは動かさないと気がすまない子だ。日常生活に必要な知識の一環として、家のものについてではあるが、鍵やドアの仕組みも教えてしまった。言葉では分かっておらずとも、手探りや見様見真似で車のそれも開けてしまうかもしれない。 そして、保険≠家とは違い遠巻きに配置せざるを得ないここでそれをやられて、万が一にでもあの子が囲いをすり抜けたり、彼らがあの子の対応に梃子摺ったりすれば、この場や男≠ニかち合いかねない。そうなれば収束にはかなり骨が折れるだろうし、最悪収まりきれずに大きな被害に繋がる可能性もある。 いつもならばもっと押し踏み入って揺さぶるところを引いたことが、心象を良くする働きをしたらしい。 そして、無用のものかと思われたホルダーの中身は服越しにでもその存在を主張して、害意を削ぎ、牽制の効果を齎したようだ。 取引はスムーズに終わった。充分遂行したといえる成果を得た。 後を追われるのを嫌った男≠謔閧熕謔ノ施設を脱し、こちらも尾けられていないことを確認すると、二つの組織へ連絡を飛ばして、急いで車へ戻った。盗聴器や発信器の類はないとしてもリスクはゼロではないし、出来れば車内で行いたかったが、子どもが余計なことを覚えては困るので致し方ない。 懸念とは裏腹に子どもは大人しくしていたようで、車内の様相は出た時とほぼ変わりなく、子どもは助手席ですやすやと眠りこけていた。思わず気が抜けてため息ともつかないものが口から漏れ出た。 ――奇妙な違和感を、拾うべきか否か。 初めて陥るはずの状況や、初めて触れるはずのものの構造を、知ったような素振りをする。何らかの目的を持って人や物を操作せんとする意思を持つかのような。 元々が奇妙な生き物ではある。その特異な生まれによって、常人にはない感覚や器官が存在し、常人であれば誰しも持ちうるものが備わっていないのだと、それだけのことだと単純に済ませても良いのだろうか。 もしかすると予想外に有用な駒か――あるいは想像以上に厄介な爆弾である可能性は、看過出来ないほどに思われる。内訳をはっきりと言い切れはしないものの、これまで培ってきた知識と経験が、それを抱く脳が、僕にそう示すのだ。 動向をよく観察すべきだ。知っておかなければならない。 この無垢を纏う生き物が、その身の内に何を秘めるか。 |