C-16 |
呼吸以外はピクリともしないその姿を確認して、随分前に読んで中身も覚えてしまっている本を棚に戻し、こっそりと部屋を出た。 何かあれば“聞こえる”から大丈夫だろう。屋敷内ならすぐ駆けつけられる。あの人には言っていないが、今はベッドサイドテーブルに置かれている沖矢昴の眼鏡は、博士が作ったものだ。 念のため寝室から離れたトイレに篭って携帯を取り出し、履歴にあった番号へ発信した。 ――掛け値なしの善意を素直に受け取れないのは、そうした甘言を弄するヤツに背を見せれば刺されるような世界をよく知るからだろう。それは仕方のないことだとしても、オレにまでまだその警戒を解けないさまには苛ついてしまった。 甘くては飲み下せないというなら味を変えてやるしかない。そうして命じる口調にした途端ころりと頷く。 あの人は優しく手を取って促されるよりも、言葉で縛り頭を抑えつけられる方が座りがいいようだった。それにも少し腹が立つ。 スナイパーの引く引き金や放ち穿つ弾丸は得てして他者の意志だ。政府の機関に所属しているのならば尚更で、しかもその実力と同じくらい命令に従うということが重要になる。 指示を受けると決めた対象に従順で、且つやれと言われたこと全て完璧にこなしうる能力があるのは確かに優秀だろう。あの組織でだって。 ずっとそういう姿勢を求められてきたんだろう、それは分かる。 「それにしてもよォー……」 機械越しに、おつかれ新ちゃん、とごきげんな声が響く。 『頷いてくれた?』 「頷かせた」 『あら』 「……言われ放題やられ放題、こんなガキに、フツーなら我慢ならなねーようなことばっかりだってのに」 『相手が新ちゃんだからでしょ。私じゃ同じようにいかないわ』 「もちろんそーだよ」 自分が特に信用されているらしいのは流石にもう充分理解出来ていた。 あの人はオレの身が子供である故の物理的な問題への配慮は見せても、能力に関しては偏見なく評価して相応に接してくれる。だからその分報いたいとも思える。 ――けれどただの好意じゃ届かないし染み込まない。あの人は情に寄りかかれない。 水無怜奈の台詞を思い出して、少し苦い気分になった。判断に従ってくれるのも嬉しくないわけではないが、そうやって従えたいわけでもないのに。 『運が悪かったわね』 そうだ。そもそも本人が遠慮するんなら無理にうちに住まわせる必要だってないと思っていたんだ。 あまりに静かだったそれは次第にちゃんとした生活音を響かせるようになった。子供に語調を変えることもせずしゃがみもしなかったあの人が、食事を作ってやりたいのだと教えを乞うて持て成すための道具を買い、言葉を易くして噛み砕いて語り、あちこちに飛ぶ開人くんの話にちゃんと耳を傾けながら他愛ない児戯を楽しんで、大家夫妻と茶や世間話をして。そのままなら本当に、そこらにいる大学院生の沖矢昴にだってなれそうだったのに。 ――燃え崩れたアパートを前に、あの人は指を胸に突き立てた。 じゃがいもの皮と一緒に自分のものも剥いてしまったという、少し派手だが、殺意も敵意も混ざらないただの傷を覆う包帯が巻かれた手で。 あの手はときに、本人の与り知らぬところでありもしない引き金を引き、いもしない何者かを掻き抱き、己の心臓を抉り出そうとし、首を締め、脳を潰しかけ、纏わり付く何かを振り払うよう、襲い来る何かから逃れるよう、それの息の根を止めるよう、あるいはまるで縋り付く先を探すように暴れる。 開人くんの見舞いをそっけなく済ませホテルにチェックインした彼がかちゃりかちゃりと鳴らした金属音は、銃器を整備する動作によるものだ。無事で良かった、早く退院できたらいいね。そんな無邪気な子どもたちの話し声の後ろで聞こえる淡々としたそれにひやりとした。 嫌な予感ほど当たる。 さほどひどくはなかったものの、成分を調整してもらった麻酔銃はさっそく役に立った。燃え盛るさなかに鉢合わせたわけではなかったのは、不幸中の幸いってやつか。 結局教えてもらえなかったし、本人に聞けるような雰囲気ではなくて、あの人の病について、憶測は出来てもハッキリとしたところは知らない。少し癪だが、よっぽどのときはあの医院に連れて行くか、あの医者を呼んだ方がいいんだろう。 「……悪ぃーな、母さん」 『いいのよ。私も心配だもの。時間はあるしね』 ――それらとは別の懸念もある。 灰原が狙われていると知って鋭くさせた瞳と気配は、ニューヨークの時と何ら変わりなかったのだ。 今は利害というほどのものもなくオレを認めてくれているからいいが、もし何かの拍子にそれが崩れ噛み合わなくなれば、相手が誰だろうとまたたく間に喉元を食い破るに違いない。そう思わせるものだった。 『それに――あの人、ちゃんと笑うととっても素敵なのよ♥』 ああ、だから余計に惜しくて悔しい。 |