幸福な食卓

 がちゃりと扉を開ければ、すぐ目の前に不機嫌そうな少女が立っていて、俺をじとりと睨んだ。

「おそよう、ねぼすけさん。いい夢見れたかしら」
「おはよう、志保。悪夢を見てしまった」
「それは良かったわね」

 ひどいな、と苦笑すれば、あのね、と少女は腕を組む。

「あなたね、ちょっとは手伝いなさいよ。お姉ちゃんにばかりやらせて」
「俺が手を出したら食べれるものも食べられなくなる」
「味付け以外にも他にあるでしょ? 食材を切るとか調理器具を洗うとか、食器の準備をするとか」

 ごみを片付けるのでもいいし、テーブルを拭いてもいいでしょ。少女は指を突きつけながら次々と、まるで小さい子供を躾けるように言い募った。
 そのさなか、少女の向こうから声が飛んでくる。

「志保、あんまり十夜くんに意地悪言わないの。昨日も遅くまで仕事だったんだから」

 明るいキッチンの奥から、困ったように笑う彼女がいた。こちらを伺いながらも手元は動かしているようで、かちゃかちゃと音がする。

「お姉ちゃん甘いわ。外で稼いでくるからって家事を全部押し付けていいわけじゃないのよ」
「おっしゃる通りだ、My little princess.」
「誰が」
「できる範囲で手伝うとする」

 赤茶色のふわふわとした髪をくしゃりと撫でる。眉を寄せられたが、叩き落とされたりはしなかった。
 朝日の差し込むダイニングを通り、ワークトップでサラダを盛り付ける彼女に近寄って、血色のいい唇にキスをした。ちょっと恥ずかしいが、こうしたときの彼女の、照れた笑顔がたいへん可愛いのだ。

「――おはよう、明美」
「おはよう、十夜くん」

 白い額にももう一度。ついでにさらりとした髪も軽く梳くように触れる。
 持っていってもいいか、と問うて、渡された鮮やかでみずみずしい野菜の盛られたウッドボウルを、ドレッシングと一緒にテーブルへ運ぶ。

「まったく、毎朝毎朝飽きないわね」
「プリンセスもご所望かな」
「結構よ」

 シンクの方から、志保も毎朝よくやるわ、と穏やかな笑い声がした。
 ぷいと顔を背けながらも少女はコーヒーを淹れる。彼女たちは紅茶派なので、俺の分だ。彼女の手料理はもちろん、少女の淹れるコーヒーもとても美味しい。

「ありがとう」
「……どういたしまして」

 じゅう、と音がする。それからベーコンの焼けるいい匂い。

「十夜くん、今日は?」
「モット・ヘブンの殺人事件は昨日で片付いたから、新しい事件によるな」
「遅くなりそうなら連絡してね」
「ああ」
「……あんまり無茶しないでよ」
「心配してくれるのか、志保」
「そりゃあするわよ。お姉ちゃんを守ってもらわなきゃいけないんだから」
「そうだな、気をつける。志保も守ってやらないといけないし」

 軽快な音とともにトースターから飛び出してきた食パンを皿に載せる。二枚ずつしか焼けないので、もう一枚をセットした。これくらいなら俺にもできる。
 その間に彼女からスープ皿を受け取ってテーブルに運んだ少女が椅子に座り、ニューヨーク・タイムズを読んでいた。
 いつのまにかテーブル中央にはジャムやバター、塩コショウにしょうゆ、ケチャップが並んでいる。なるほど、目玉焼きもあるようだ。三人で暮らしだしてからしばらくのころ、トーストも目玉焼きも何を付けるかで戦争が起きかけたので、各自で好きにやるようになっているのだ。
 もう大丈夫、と彼女に言われて、俺も少女の向かいに座る。

「ハイスクールはどうだ?」
「その聞き方、父親みたい」
「パパと呼んでくれてもいいが」
「冗談。――順調よ」
「いじめられたりしたら言えよ」
「嫌よ。ライフル持って乗り込んできそうだもの」
「じゃあハンドガンにする」
「これに載るのはよしてよね」

 ジト目の少女が新聞を指で弾く。俺が取り扱った事件が載っていた。紙面に顔写真が載るのは遠慮したい、コワモテの部下を連れて脅しに行くくらいにしよう。
 少女は以前の学校で、アジア人のその容姿をからかわれていたと聞くから、どうしても心配だった。

「おまたせ」

 彼女が残りの皿を持ってやってきて、俺の隣に腰掛ける。
 トースト、ベーコンエッグ、サラダにスープ。うつくしく並べられたお手本のような朝食が、なんだか眩しい。食欲をそそる匂いに頬が緩み、胃がきゅうと締まって手を急かした。

「いただきます」

 誰かに貰ったカトラリーセットに入っていた、シンプルな銀のスプーン。俺には少し小さいそれを、スープにくぐらせて口へ運ぶ。


 ――何の味もしなかった。


 思わず取り落としたそれが、かちゃんと高い悲鳴をあげる。
 気づけば、向かいにも隣にも誰もいない。明るく清潔な部屋の中、四人がけのテーブルに一人で座っている俺の姿は、あまりにも滑稽だった。




 ぱちりと目を開く。曲線を描いた天井は建物のそれより近い。
 やや重い腕を持ち上げて視界に入ったのは、銃創の痕と落ちない血液のついた掌。
 運転に疲れてそこらのパーキングに停め、車内で横になったのだった。携帯を確認すると、最後に見た時間からきっちり三時間が経っていた。

 夢の中で夢を見るなんて。しかもひどく質の悪いものを。
 どうせならいっそ、この悪夢まで覚めてしまえばよかったのに。


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