しずまぬ真珠

 ――先生。

 十近く年上の彼は、僕をそう呼ぶ。
 二倍三倍の年齢でもそういう患者さんは多いから、別段珍しいことではないのだけれど、彼に呼ばれると少し不思議な気分になる。
 こんにちは、と僕が微笑めば、彼はほっとしたようにする。

 ――ああ、本物だ。

 普通なら人間に本物も偽物もないと言うところだろうが、僕には偽物がいた。僕の姿をして僕になりすまし、何か悪いことをしようとしていた人がいた。
 彼はそれを僕に教え避難させてくれたFBI捜査官の一人だ。
 僕を殺そうとする偽物の先手を打って死んだふりをするため、わざと事故をおこして、なんと車で海に落ちたらしい。いわば、僕の命の恩人だ。

 彼は一度、身分を明かす前に姿を変えて診察に来たことがある。
 後になって実は捜査官であれは悪い人を調査するためだったと聞いたが、そのときの彼の様子はとても嘘とは思えないものだった。
 尋ねれば、彼は苦い笑みで、あれは本当の話だと返した。

 大学のツテを使って紹介した専門医ではなく、彼は僕が良いと言った。だが迷惑ならそちらに行くとも。
 迷惑だとは思わない。恩人に頼られ役に立てるのなら嬉しいし、なにより心配だった。そう伝えると、彼は目元を緩め静かに息を吐いた。



 ――聞いてくれますか。

 幾度か他愛もない話をするだけの来訪をし、ある日、彼は静かに問うた。もちろんです、と答える。
 彼は姿勢を改めるでもなく、世間話ばかりのいつもと変わらない調子で語りだす。


 ――先生、俺は、わからないんです。

 ――この世界がわからない。夢なのか現実なのか。


 ――銃弾を受けたって痛くない、火を掴んだって熱くない、いつだって暑くも寒くもなければ、何を食べたって味がしない。

 ――彼女の作る食事は美味かった。その体も血も温かかった。けれどそれが本当だったのか、確かめるすべはもうない。

 ――信じられないんです。だってこの世界は何もかもめちゃくちゃだ。ありえないことが次々起こる。理解に苦しむことばかりだ。取り巻くすべて、俺自身さえも。

 ――けれど、俺以外はそうじゃない。痛いし死ぬしあつがるし、飯や酒が美味いという。ここの全てが当たり前で、疑問に思う余地もない。俺以外みんなそうだ。

 ――ならばこの世界では、おかしいのは俺の方だ。他の全てより俺の頭一つがおかしいと考える方が自然だ。

 ――ああ、すみません、慰藉が欲しいわけじゃないんです。だからどうということでもない。くだらない話ですね。すみません。

 ――ただただわからない。俺には“ここ”が何なのかわからない……


 瞳を揺らすことも、呼吸を乱すこともなく、彼はひどく平静にそう語った。

 体を見せてもらうと、背中には恐らく近頃出来たのだろう痛々しい大きな痣があった。彼は僕に指摘されるまでそれに気づいておらず、触っても痛くないとけろりとしていた。
 他にも無数の傷跡があったが、自身からぱっと目につかない場所のものは、どこでどうついた傷か、いつ治ったのか、ほとんどわからないという。
 傷を傷として認識していないまま気にも掛けていないからか、普通であれば綺麗に消えるだろうものの跡も歪に残っている。
 先日“うっかりイヌに噛まれてしまった”という傷は、それなりにちゃんと手当がしてあったし、うちへ来るようになってからは僕が処置をしているので、きちんと治りそうだけれど。

 ひかるさんの入れたお茶を飲み体を重そうにする姿に、眠れないにしろ少し横になるだけでもどうかと言えば、彼はそれに大人しく頷いた。
 もしかしたら三時間ほど意識が飛んでしまうかもしれない、と引き返して帰ろうとする彼に、それでもまだ診療時間内だから大丈夫だと答えて、空いた一室のベッドを貸し、その間に他の患者さんの診察を行った。

 彼は本当に三時間後、しゃきりと起きてきて礼を言った。若干体が軽いと。

 ――ありがとう、先生。

 ほんの少しだけやわい笑みを受け、愁眉を開くよりも先に、なんだか胸がざわついた。



 それから僕が勧めたのもあって、彼は受診ついでに休んでいくことが増えた。
 回を重ねる毎徐々に幾分リラックスしたような態度を見せるようにもなって、僕を信用してくれているのか、仕事に関わる話を漏らすこともあった。
 恩人からの信頼もそうだし、もちろん仕事としても人間としても他言するようなことは絶対にしないと、それをわかってもらえているようで少し嬉しくもある。

 言葉を増やしどことなく人間味を増していく彼にわずかな安堵を、それでもなお漂う――むしろ増していく――言い知れない雰囲気に焦燥のようなものを感じる。

 ――彼があの話をしたのはあれっきりだった。


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