此処にひとつの心臓があります | ナノ




隠し事


いつの間にか朝になっていた。


「・・・・・」


ずっと起きていたのか、それとも今まで寝ていたのか分からない。昨夜から今朝方にかけての記憶が消えていた。頭の中は振ればからからと干からびた脳の音がしそうなほど空っぽだった。

そんな虚無状態の頭の片隅に、ひとかけら残っているものがあった。それは昨夜のロード様の言葉だ。
その言葉をきっかけとしていろいろな思考が脳にどんどん詰め込まれていく。水分を取り戻した脳は生き返ったように回転を始める。

呼吸や脈拍に生気が急激に戻り始めたとき、私は足に力を入れて立ち上がった。

立ちくらみで目の前が一瞬真っ暗になる。

その闇が私を飲み込む前に、部屋をでた。
ふすまを開けるとのぼり始めたばかりである太陽の光の一片が、清らかな朝の空気とともに私にさす。体に少しずつ力を与えてくれるみたいな、そんな一筋の光だった。

私はさっそくコムイ様の部屋へと足を運んだ。もちろん昨夜のことを伝えるためだ。

朝、とは言ってもまだ鶏も鳴かない時刻であった。しかし火急のことであるというのは誰が見ても聞いても明らかである。早く伝えないほうが無礼に値するであろう。

しかしコムイ様の部屋までもう少しのところで、新しい水が脳を潤した。

――このことを伝えるのは、最良のことであるのだろうか。

水は、私の身の危険を知らせていた。ロード様の宣戦布告を伝えることはコムイ様に私への不信感を芽生えさせることにつながるからだ。

そのことに気がつくと伝えようと思っていたことを伝えることは躊躇われた。躊躇うどころか、私はやめたいと思った。
私は、その場に固まることになった。相反する気持ちが、私を動けなくさせてしまったのだった。


「何をしている。」


きゅ、と鴬張りの床が鳴った。その後響いた低い声は、私の心臓を一瞬止める。
振り返ると神田様がそこにいた。そういえば、彼は早朝に心身を鍛えるのが日課であった。普通、まだ誰も目を覚まさないこんな早朝に私が床を鳴らす音を聞いて気にとめたのだろう。

私はどう言い訳をしようか即座に頭を働かせた。ものの数瞬で言葉を弾き出す。


「神田様がそちらで鍛練なさっていたので、反対の外で鍛練しようかと思ったのですが・・・鴬張りの床だったことを思い出して。コムイ様を起こしてしまうのではと躊躇っていました。」


我ながら、これは納得のいく言い訳だと思った。神田様もすぐに「そうか」と納得したようだった。


「ならこっちですればいい。」


「ですが・・・お邪魔になるのでは、」


「邪魔じゃない。」


神田様が私の手をつかむ。はっ、と息が一瞬にして封じられる。


「来い。」


神田様は優しく手を引っ張っていくのであった。
私はその優しさに、足が地から浮かんでいくような気さえもした。

彼の熱を感じると、昨夜のことが思い出された。結局はロード様の世界の偽者で、幻のようなものであったけれど、もし、もしも、と夢想してしまうのである。現で彼がこうしてくれたら。やけどしそうなほど熱い吐息が耳に感じられたら。それはなんと甘美なものであるだろう、と。

そんな夢想の世界からは、すぐに引き戻された。神田様が連れてきたのは私の部屋から神田様の部屋へと向かう渡り廊下から階段を使って外に出たところで、それなりに空間のある場所だった。


「――最近、刀ばかりあつかって、組み手がおろそかになっていた。」


腰に下げた刀を取り、渡り廊下のふちに立てかけながら神田様は言った。


「相手がいたほうがいいからな。」


ゆるりと腕を持ち上げ、手をくっと曲げて彼は構えた。どこにも力みがなくそれでいて隙のない姿だ。


「どこからでもいいぜ。」


わずかに口端を上げて神田様は私を誘う。
私は知っていた。此処からは上も下も関係なく力量だけの世界が広がっていると。此処からは、思う存分に彼に向かっていいことも。

私は一歩、また一歩とだんだん速度を速めて踏み出した。四歩目から一気に己の俊敏さを発揮させ、間合いを詰めた。


「っ。」


息を詰めて、一振り目。頭部を狙う。もちろんかわされると分かってのものだ。そのまま彼を少し通り過ぎたところで引き返してもう一度向かう。
振り返りざまに向こうの攻撃がきた。腹部あたりにきた拳を手でいなすついでに勢いをそのまま利用して相手をくるりと宙に投げる。
宙に投げられたにも関わらずそこで見事に体勢を整えると、彼は上から仕掛けてきた。組み手がおろそかになっていたなんて、嘘に違いないと思うほどに、彼の動きは洗練されている。


「ふっ」


額の上で交差させた腕で受け止める。互いに吐き出された息が絡み合う距離まで近づく。腕の隙間から合う瞳は血を滾らせている。

思わず見とれそうになった。美しささえ感じる生の強さが、私の背筋にしびれにも似た感覚を起こさせるのである。
それは、何も"不純物"が混じっていない生の美しさだった。眩くて、目を閉じてしまいそうなくらい。正反対の私には、"高嶺の花"に思えた。

反動をつけて腕が離れて行く。その反動を利用して、間合いをとった。


「鈍い。」


神田様が息を整えつつ吐き出すように言った。
私は、私のことを言われているのだとわかった。しかし私にはそんな自覚がなかったのでいまいちはっきりと自覚できない。


「今の間合い、攻撃をする隙があった。てめえだったら攻撃できた隙だ。なのになぜ攻撃しなかった。」


「!」


私は驚いた。神田様自身でさえ気づいていた隙を、私が気づかなかったなんて。私は、なぜ・・・


「昨夜、何かあったか。」


びくりと私は肩を震わせてしまう。


「昨夜、遅くまで部屋に蝋燭が灯っていた。それにさっき、コムイの部屋の前で立ち止まっていたのは違う理由だろう。」


「気づいてたのですか。」


「今の組手で確信した。」


ああ、そうか、と私は先ほどの組手の自分の動きに納得を覚えた。気づかぬうちに、私は調子を狂わされていたのかもしれない。ロード様や自分の臆病さ、そしてコムイ様への猜疑心に。

神田様には私のことが私以上にお見通しだったようだ。今のこんな私じゃ、きっと組手などしてもなんのお役にも立てるはずがない。


「申し訳ありません。」


私は素直に片膝をついた。


「誰もそんなことしろなんて言ってねえ。」


神田様は、いつも乱暴な言葉の割りには優しい。今も私に手を差し伸べて立たせようとしてくれている。


「何があったんだ。」


そんな彼の言動に触れると、昨夜のことを話してもいいような気もしてくるのであった。彼なら、信じることができるのかもしれないと。彼なら、私を受け入れてくれるのではないかと。

しかし。


「・・・っ」


私は、俯いた。恋い慕っている彼でも、どうしてもその手を取ることができなかった。

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